April 2042002

 韮粥につくづく鰥ごころなる

                           瀧 春一

語は「韮(にら)」で春。「韮の花」といえば夏季になる。また、「鰥(やもお)」は妻を失った男、男やもめのこと。さて、お勉強。なぜ大魚を一義とする鰥が、男やもめを意味するのか。調べてみようとしたが、私の貧弱な辞典環境ではわからなかった。どなたか、ご教示ください。作者が韮粥を食べているのは、ちょっとした風流心などからではないだろう。たぶん体調を崩してしまい、食欲もなく、粥にせざるをえなかったのだと思う。それでも白粥のままではいかにも栄養不足に思われ、庭の韮をつまんできて、気は心程度にではあるが少々の緑を散らした。こういうときに妻が健在だったら、もっと栄養価の高いものを食べさせてくれたろうに……。身体が弱ると、心も弱る。「つくづく鰥ごころ」が高じてきて、侘しさも一入だ。淡い粥のような味わいのある句。読者にもそんな環境の方がおられるだろうが、どうかご自愛ご専一に。蛇足ながら、たとえ鰥でも体調万全となると、一転してこんなへらず口を叩いたりする。「人生には至福の時が二度ある。一度目は妻となる女性がヴァージンロードを歩いてくる時。二度目は妻の棺桶が門から出ていく時」。なに、生涯「韮粥」とは無縁の国で暮らした可哀想な男のひとりごとです。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます