April 1942002

 家ぬちを濡羽の燕暴れけり

                           夏石番矢

語は「燕(つばめ)」で春。実景だとすれば、慄然とさせられる。「家ぬち」は家の「内」。雨に濡れた燕が、突然すうっと家の中に飛び込んできた。燕にしてみれば、我が身に何が起きたのかわからない。わからないから、必死に自由な空間を求めて、暴れまくるのみ。燕も驚いたろうが、家ぬちの人間だって仰天する。どうやって逃がしてやろうか。そんなことを思案するいとまもなく、暴れる燕におろおろするばかりだ。「暴れけり」と言うのだから、なんとか騒動に「けり」はついたのだろうが、思い出すだに恐い句だ。しかし、実景ではなかった。吉本隆明との対談のなかで、作者が次のように述べている。「私としては、一つは家庭内暴力性みたいなものが書けてるんじゃないか、直感で書いた句なんですが、その照応関係を意外に思ってるんです。『濡羽』の『濡(ぬれ)』はおそらく母親、それこそ母体からの水、もしくは、母親とのパトス的な繋がりや齟齬なんかもひょっとしてあったのかなと……」。吉本さんが「俳句ってのは家庭内暴力ですから」と言った流れのなかでの発言だ。とくに難解な現代俳句を指して、その難解性の在所を示すのに、「家庭内暴力」という視点は面白いと思う。ただ理不尽に難解に見える句にも、その根には暴力を振るう当人にもよくわからないような直感が働いているということであり、作句の根拠があるということだ。掲句は、そうした自身のわけのわからぬ内なる暴力性を、有季定型の手法で直感的に造形してみると、こうなったということだろう。『猟常記』(1983)所収。(清水哲男)




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