March 2932002

 蘖や切出し持つて庭にゐる

                           波多野爽波

語は「蘖(ひこばえ)」で春。木の切り株から若芽が萌え出るのが、蘖だ。「孫(ひこ)生え」に由来するらしい。「切出し」は、工作などに使う切出しナイフのこと。実景だろうが、庭に蘖を認めた作者の手には、たまたま切出しがあったということで、両者には何の関係もない。偶然である。しかし、この「たまたま」の情景をもしも誰かが目撃したとすれば、たちまちにして両者が関係づけられる可能性は大だ。つまり、せっかく萌え出てきた生命を、これから作者が無慈悲にも切り取ろうとしているなどと。そんなふうに、作者のなかの「誰か」が気づいたので、句になったのだ。おそらく、作者は大いに苦笑したことだろう。このあたりを言い止めるところはいかにも爽波らしいが、瞬時にもせよ、もう少し作者の意識は先に伸びていたのかもしれないと思った。すなわち、このときの作者には、本気で若芽を断ち切ろうとする殺意がよぎったということだ。そして、この想像はあながち深読みでもないだろうなとも思った。実際、刃物を手にしていると、ふっとそんな気になることがある。次の瞬間には首を振って正気に戻りはするのだけれど、鉈で薪割りをしていた少年時代には、何度もそんな気分に襲われた。いったい、あれは自分のなかの那辺からわいてくる心理状態なのか。刃物の魔力と総括するほうが気は楽だが、やはり人間本来の性(さが)に根ざしているのではあるまいか。『骰子』(1986)所収。(清水哲男)




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