March 2832002

 めんどりよりをんどりかなしちるさくら

                           三橋鷹女

語としては「落花」に分類。「九段界隈 桜みち」(第6号)というPR誌を読んでいたら、随筆家の木村梢が書いていた。この人は、邦枝完二のお嬢さんだ。「昔から、江戸っ子は満開の桜は見なかったといいます。三、四分咲きを見て、それからずっと見ないで、散りぎわに見る……」。いかにも、という感じ。徹底してヤボを嫌えば、そういうことになるのかもしれない。花のはかなさを愛したのだ。掲句もまた、徹底してはかない。はらはらと落花しきりの庭で、放し飼いの鶏たちが無心に餌をついばんでいる。花の白、鶏の白。滅びゆくものと、なお生きてあるもの。この対比だけでも十分にはかない味わいだが、作者はもう一歩踏み込んで、「めんどり」と「をんどり」とを対比させている。等しく飼われて生きる身ではあるけれど、実利的に珍重されるのは断然めんどりの側で、をんどりの役割はただ一つだから、数も少ないし大事にされることもない。もはや無用と判断されれば、情け容赦なく殺されてしまう。作者が認めているのは、どんなをんどりの姿だろうか。降りしきる花びらを浴びながら、じっと目を閉じている姿かもしれない。めんどりよりも毅然としている姿ゆえの「かなし」さが、平仮名表記のやわらかさも手伝って、じわりと胸にひびいてくる。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所収。(清水哲男)




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