March 2732002

 さくら鯛死人は眼鏡ふいてゆく

                           飯島晴子

語は「さくら鯛(桜鯛)」で春。当ページが分類上の定本にしている角川版『俳句歳時記』の解説に、こうある。「桜の咲くころ産卵のために内海や沿岸に来集する真鯛のこと。産卵期を迎えて桜色の婚姻色に染まることと、桜の咲く時期に集まることから桜鯛という」。何の変哲もない定義づけだが、私は恥ずかしながら「婚姻色(こんいんしょく)」という言葉を知らなかったので、辞書を引いてみた。「動物における認識色の一種で、繁殖期に出現する目立つ体色。魚類・両生類・爬虫類・鳥類などに見られる。ホルモンの作用で発現し、トゲウオの雄が腹面に赤みをおびるなど、性行動のリリーサーにもなる」[広辞苑第五版]。そしてまた恥ずかしながら、人間にもかすかに婚姻色というようなものがあるようだなとも思った。青春ただなかの色合いだ。それにしても、飯島晴子はなんという哀しい詩人だったのだろう。こういうことを、何故書かずにはいられなかったのか。満身に、春色をたたえた豪奢な桜鯛。もとより作者も眼を輝かせただろうに、その輝きは一瞬で、すぐに「死人(しびと)は眼鏡ふいてゆく」と暗いほうに向いてしまう。滅びる者のほうへと、気持ちが動く。しかも、死人は謙虚に実直に眼鏡を拭く人として位置づけられている。句の真骨頂は、この位置づけにありと認められるが、私は再び口ごもりつつ「それにしても……」と、ひどく哀しくなってくる。川端茅舎の「桜鯛かなしき目玉くはれけり」などを、はるかに凌駕する深い哀しみが、いきなりぐさりと身に突き刺さってきた。定本『蕨手』(1972)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます