March 2632002

 一日のどこにも桜とハイヒール

                           坪内稔典

段は、昭和初期のモダン・アートを思わせる。洋髪の美女が、西欧世界ではなく、日本的な情景のなかに憂い顔でたたずんだりしていた絵だ。和洋折衷の哀しき美しさ。当時の新聞写真などを見ると、そんな絵から抜け出たように思われていたのは、たとえば蓄音機を鳴らしていたカフェの女給あたりだろうか。西欧への憧れとドブ板を踏む現実とが、なにやら不思議なハーモニーを奏でていたような……。ハイヒールと花の取り合わせも、同断である。ほろほろと散る桜の樹の下に、ひとりたたずむ(あるいは颯爽と歩いている)ハイヒール姿の女性のシルエット。これが下駄や草履履きやの女性と花との取りあわせだったら、初手からモダンにはなりっこない。その美しさは、日本的情趣のなかにとっぷりと沈みこんでしまう。掲句はそうしたモダンな絵を意識しつつ、しかしそれが「一日のどこにも」と言うのだから、作者はいささかうんざりしている。モダンもオツなものだけれど、氾濫するとなると辟易ものである。モダン感覚にとっては、あくまでもぽつんと静かに、たまたまそんな女性が存在することが重要なのである。近年、伝統的なハイヒールを履く女性は少なくなってきた。が、この句でのハイヒールは、例の厚底サンダルなどを含めてのことなのであり、もはや西欧を意識することもなくお洒落ができるようになった現代女性のパワーに、あっけにとられている図だとも読める。『月光の音』(2001)所収。(清水哲男)




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