G黷ェト劃句

March 1232002

 白木蓮に純白という翳りあり

                           能村登四郎

語は「白木蓮(はくもくれん)」で春。この場合は「はくれん」と読む。落葉潅木の木蓮とは別種で、こちらは落葉喬木。木蓮よりも背丈が高い。句にあるように純白の花を咲かせ、清美という形容にふさわしいたたずまいである。いま、わが家にも咲いていて、とくに朝の光りを反射している姿が美しい。そんな様子に「ああ、きれいだなあ」で終わらないのが、掲句。完璧のなかに滅びへの兆しを見るというのか、感じるというのか。「純白」そのものが既に「翳り(かげり)」だと言う作者の感性は、古来、この国の人が持ち続けてきたそれに合流するものだろう。たとえば、絢爛たる桜花に哀しみの翳を認めた詩歌は枚挙にいとまがないほどだ。花の命は短くて……。まことにやるせない句ではあるが、このやるせなさが一層花の美しさを引き立てている。しかも白木蓮は、盛りを過ぎると急速に容色が衰えるので、なおさらに引き立てて観賞したくもなる花なのだ。「昼寝覚しばらくをりし白世界」、「夏掛けのみづいろといふ自愛かな」、「老いにも狂気あれよと黒き薔薇とどく」など、能村登四郎の詠む色はなべて哀しい。『合本俳句歳時記・二十七版』(1988・角川書店)所載。(清水哲男)


June 2062002

 夏掛やつかひつくさぬ運の上

                           安東次男

語は「夏掛(なつがけ)」、涼しげに仕立てられた夏蒲団。軽くて見た目には涼しそうでも、暑い夜にきちんと蒲団を掛けて寝るのはやはり寝苦しい。子供の頃に「いくら暑くても、お腹だけは冷やさないように」と躾けられ、いまだに習慣となってはいるが、ときとして掛けたくなくなる。そんなときに、この句は呪文かまじないのように使える。掛けないと、まだ使い切っていない「運」が逃げていってしまうとなれば、腹をこわすよりもよほど大問題だ。そこでいくら暑くても、「ナツガケヤツカヒツクサヌウンノウエ」と唱えながら掛けると、なんとなく納得したような気分になれる。俳句が、実生活に役立つとは露知らなかった。とまあ、半分は冗談だけれど、作者にしても自己納得の方便として「つかひつくさぬ運」を持ちだしているのは明白だ。もしかすると、作者ゆかりの地には、こんな迷信が言い伝えられているのかもしれない。そもそも「つかひつくさぬ運」という考え方自体が、迷信に通じているからだ。そして、言い伝えられているとしたら、やはり子供の躾のためだろう。それを、作者は大人になっても守りつづけていたと思うと微笑を誘われる。大の大人になっても、誰にでもこうした一面はあるものだと、むろん作者は意識的に書いている。『流』(1996・ふらんす堂)所収。(清水哲男)




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