March 1232002

 白木蓮に純白という翳りあり

                           能村登四郎

語は「白木蓮(はくもくれん)」で春。この場合は「はくれん」と読む。落葉潅木の木蓮とは別種で、こちらは落葉喬木。木蓮よりも背丈が高い。句にあるように純白の花を咲かせ、清美という形容にふさわしいたたずまいである。いま、わが家にも咲いていて、とくに朝の光りを反射している姿が美しい。そんな様子に「ああ、きれいだなあ」で終わらないのが、掲句。完璧のなかに滅びへの兆しを見るというのか、感じるというのか。「純白」そのものが既に「翳り(かげり)」だと言う作者の感性は、古来、この国の人が持ち続けてきたそれに合流するものだろう。たとえば、絢爛たる桜花に哀しみの翳を認めた詩歌は枚挙にいとまがないほどだ。花の命は短くて……。まことにやるせない句ではあるが、このやるせなさが一層花の美しさを引き立てている。しかも白木蓮は、盛りを過ぎると急速に容色が衰えるので、なおさらに引き立てて観賞したくもなる花なのだ。「昼寝覚しばらくをりし白世界」、「夏掛けのみづいろといふ自愛かな」、「老いにも狂気あれよと黒き薔薇とどく」など、能村登四郎の詠む色はなべて哀しい。『合本俳句歳時記・二十七版』(1988・角川書店)所載。(清水哲男)




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