February 2722002

 ゆるやかな水に目高の眼のひかり

                           山口誓子

語は「目高(めだか)」で夏。えっ、なぜ春ではなくて夏なのだろうか。私などは、水ぬるむ頃の小川ですくって遊んだものだから、目高と春のイメージとは固く結びついている。唱歌の「春の小川」にも「♪えびやめだかや 小ぶなの群れに……」とあるではないか。早速、理由を調べてみたら、昔は水鉢などに飼って涼味を楽しんだそうで、季語的には金魚と同じ扱いということのようだ。だから、夏。となれば、俳句に登場する目高は観賞魚と思ったほうがよいわけだが、掲句では明らかに観賞用の目高ではない。「ゆるやかに」流れる水という表現からしても、夏というよりも、春の感じが濃い。春になってやっと出てきてくれた目高だからこそ、「眼のひかり」が生きてくる。小さな生き物の眼に光りを感じる心は、春出立の希望や決意のそれと照応している。どう考えても、夏ではない。早春の句と読むべきだろう。また余談になるが、目高と遊んでいたころに、生きたまま飲み込むのを得意とする友人がいた。蛇をつかんで振り回すのと同じで、男の子の勇気の証しだった。私にはとても飲み込めなかったが、後で知ったところによると、飲み込む習俗は古くから大人の世界で行われていたそうである。目高の眼が大きいところから眼がよくなるなど、呪術的な目的があったという。これも全国どこにでも目高がいた頃の話で、いまや目高は絶滅危惧種となってしまった。いまどき三匹も飲み込んだら、訴えられてしまうかもしれない。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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