February 2422002

 波羅蜜多体育館にしやぼん玉

                           摂津幸彦

語は「しやぼん玉(石鹸玉)」で春。いかにも春らしい景物だ。「波羅蜜多(はらみった)」は仏教用語、「波羅蜜」とも言う。「宗教理想を実現するための実践修行。完成・熟達・通暁の意であるが、現実界(生死輪廻)の此岸から理想界(涅槃・ねはん)の彼岸に到達すると解釈して、到彼岸・度彼岸・度と漢訳する。特に大乗仏教で菩薩の修行法として強調される。通常、布施・持戒・忍辱(にんにく)・精進・禅定・智慧の六波羅蜜を立てるが、十波羅蜜を立てることもある [広辞苑第五版] 」。さて、私などはいい加減に「体育館」と付きあっただけだが、考えてみれば、あそこもまた心身の修業道場である。運動能力の高い友人たちは、みな真剣にトレーニングに励んでいた。何が面白くて、そんなに苦しい練習を繰り返しているのか。半ば冷笑していたけれど、彼らには波羅蜜多の苦しさと同時に恍惚の境地もあったようだと、今にして思われる。そんな修業の場に、開け放った窓からふわりふわりと「しやぼん玉」が舞い込んできた。こちらは、難行苦行などとは無縁の気楽そうな軽さで浮遊している。作者は、まずはこの対比ににやりとしたはずだ。だが、待てよ。波羅蜜多の人は、まだ彼岸への過程に遠くあるわけで、一方の軽々と浮遊する物体は、ほとんど彼岸に到達しようとしているのではなかろうか。どちらが完成熟達の域にあるのかといえば、誰が見てもしやぼん玉のほうである。そして、間もなくしやぼん玉はふっと姿を消すだろう。彼岸に到達するのだ。のどかな春の日の体育館の何でもない光景も、摂津幸彦の手にかかると、かくのごとくに変貌してしまう。『鳥屋』(1986)所収。(清水哲男)




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