February 2222002

 春の夜や盥を捨る町はずれ

                           与謝蕪村

こを書いてアップした後で「しまった」と思うことがある。何故あんなにトンチンカンな解釈をしてしまったのだろう、などと。でも、多くの場合は訂正しないことにしている。書いているときには確かにそう思ったのだから、それはそれで仕方がない。トンチンカンもまた私の内実だし、トンチンカンがあるからこそ、表現者としての私もかろうじて成立しているのだから……と。言いわけするのではないが、掲句についての萩原朔太郎の鑑賞文があって、実にトンチンカンな解釈をしている。何故、こんなふうに思ったのだろうか。不可思議かつ面白いと思うので、全行を引用しておく。「生暖かく、朧に曇った春の宵。とある裏町に濁った溝川が流れている。そこへどこかの貧しい女が来て、盥を捨てて行ったというのである。裏町によく見る風物で、何の奇もない市中風景の一角だが、そこを捉えて春夜の生ぬるく霞んだ空気を、市中の空一体に感触させる技巧は、さすがに妙手と言うべきである。蕪村の句には、こうした裏町の風物を叙したものが特に多く、かつ概ね秀れている。それは多分、蕪村自身が窮乏しており、終年裏町の侘住いをしていたためであろう」(岩波文庫版『郷愁の詩人 与謝蕪村』)。はてな。たしかに「盥を捨る」とはあるけれど、誰が読んでも「盥(の水)を捨る」と思うのではないだろうか。だったら「裏町によく見る風物」としてよいが、そうではなくて盥そのものを捨てたと信じた詩人の直感は、どういうところから生まれてきたのだろう。この間違いの根っこには、何があるのか。トンチンカンだと言い捨てるのではなく、そこのところに猛烈な好奇心がわく。(清水哲男)




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