February 1722002

 蓬摘み摘み了えどきがわからない

                           池田澄子

語は「蓬(よもぎ)」で春。世の中には、言われてみれば「なるほどねえ」ということがたくさんある。掲句も、その一つだ。ひな祭りに供えるためか、搗き込んで蓬餅にするためか。とにかく蓬を摘んでいるのだが、さて、どこで摘むのを「了(お)え」たらよいのだろう。ふとそう思ったら、「わからな」くなっちゃったと言うのである。たいていの人は適当に摘んでいるから、こんなことは思いもしない。でも、何の因果か、ひとたびこの悩ましい疑問に捕えられたら最後、誰だって立ち往生せざるを得なくなる。物量的にも時間的にも、いかに日頃の私たちの「適当」な作業が、難しい問題を「適当に」さばいているかが逆照射されていて、面白い。句の疑問は、蓬摘みだけではなくて、日常のあっちこっちに転がっている。だから、句が生きてくる。早い話が、他ならぬこの拙文だ。どこで書き了えればよいのか、わからない。いつもは適当に終わっているのだが、べつに「適当」に基準があるわけじゃないので、生命あるかぎり書きつづけることも可能だし、今すぐに止めてもよいわけだ。「じゃあ、どうするのよ」と、掲句がにらんでいる。しかし、私にはまさに「わからない」としか言いようがない。困ったことになりにけり。ああ、とんでもない句に出会ってしまった……。と、適当に了えておきます。でもねえ……。と、まだ未練がましく後を引いている。『池田澄子句集』(1995)所収。(清水哲男)




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