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February 1622002

 春の灯や女は持たぬのどぼとけ

                           日野草城

語は「春の灯(春燈)」。明るく華やいだ感じを言う。その灯のなかにある女性の美しさ。武骨な「のどぼとけ」のない「のど」一点の滑らかさ、まろやかさをすっと言い止めて、読者に姿全身の美しさを想像させている。思うに、古今俳人は数あれど、草城ほどに女人礼賛の句を多く作った俳人も珍しいのではあるまいか。第一句集『花氷』のしょっぱなに「うつくしきひとを見かけぬ春浅き」があり、新婚初夜を即吟的に詠んだかのような連作「ミヤコ ホテル」はあまりにも有名だ。したがって、この句も偶発的にできたのではなく、常に女性美に執し続けている心から生まれたものだと思う。もとより、句の心根にあるのはお世辞でも何でもない。心底賛嘆しているがゆえの嫌みの無さから、そのことがわかる。関根弘に、奥さんが美容院に行ってきたことに気がつかず、大いに不機嫌にさせてしまったという出だしの詩があった。そこで詩人は女の自尊心に「てやんでえ」と啖呵を切るのであるが、草城が読んだら卒倒しそうな作品である。哀しいことに、気がつかないという点で、私は関根さんに近い。その意味で、草城句集を開くたびにコンプレックスを感じてしまうのだが、どうにもなるものではない。読者諸兄におかれては、如何なりや。室生幸太郎編『日野草城句集』(2001)所収。(清水哲男)


April 2742002

 遠く航くための仮泊の春灯

                           友岡子郷

語「春灯」は「はるともし」と読ませている。作者は神戸在住だから、神戸港の情景だろう。燃料などの補給のために、仮泊している外国船籍の船。各船室にはさながらホテルを思わせる灯がともっていて、いかにも明るく華やいだ感じがする。「遠く」どこまで航(ゆ)くのだろうか。明日になれば幻のようにいなくなってしまうであろう客船を、作者はしばしたたずんで眺めている。我が身とは何の関係がなくても、何故か船にはロマンチックな雰囲気がある。空の船である飛行機には感じられない、物語性がある。スピードの差もあるだろうが、交通手段としての歴史の差も働くからだろう。そしてまた、船は人々の生活を乗せて航海しているのに比して、飛行機にはそれがない。点から点へと素早く移動するための道具としての機能が、最優先されている。戦後に「憧れのハワイ航路」という歌謡曲(歌・岡晴夫)がヒットしたけれど、対するに「憧れのハワイ飛行」というわけにはまいらない。飛行機のフライト過程は、限りなく無に近いのだ。理屈はともかく、春の宵のおぼろな雰囲気のなかに浮かんでいる外国船の様子が、すっと素直にうかがわれて、地味ではあるが佳句だと思った。『椰子・椰子会アンソロジー2001』(2002)所載。(清水哲男)


March 2632003

 春の灯に口を開けたる指狐

                           牧野桂一

の燈火には、明るくはなやいだ感じがある。「指狐(ゆびきつね)」は子供の遊びで、人差指と小指を立て、残りの三本の指で物をつまむようにして影絵にすると、狐の形になる。ふと思いついて、作者はたわむれに壁に写してみた。大の男の影絵遊びだ。いろいろとアングルなどを変えたりしているうちに、すっと狐の口を開けてみた。まさか「コン」とは鳴きはしないが、何か物言いたげな狐がそこにいて、しばらく見つめていたと言うのである。いま実際に私も写してみたら、子供のときの印象とは違って、「口を開けたる指狐」の風情は、ひどく孤独で淋しげだ。光源がはなやいだ「春の灯」であるだけに、余計にそう感じるのだろう。子供のころの我が家はランプ生活だったので、当然光源は微妙にゆらめくランプの灯であり、影絵だけは電灯よりもランプの炎のほうが幻想的で面白かったなあ。けっこう熱中していたことを、思い出した。しかし、狐のほかに今でも作れるのは、両手を使って作る犬の顔くらいのものだ。あとは、何の形を作ったのかも忘れてしまった。でも、考えてみれば、影絵は生れてはじめて興味を抱いた映像である。いまだにシンプルで淡い「かたち」に惹かれるのも、あるいは当時の影絵の影響かもしれない。「俳句界」(2003年4月号)所載。(清水哲男)


April 2442006

 栞ひも書架より零れ春燈下

                           井上宗雄

語は「春燈(しゅんとう)」。この句に出会った途端、思わず本棚を見てしまった。なるほど、普段はまったく意識したことはなかったけれど、たしかにあちこちの棚の端から「栞(しおり)ひも」が零(こぼ)れている。辞典の類いは別として、栞ひもの位置からその本をあらためて眺めてみると、未読のまま途中でやめてしまっている本はすぐにわかる。なぜ読むのをやめたのかも、あらかた思い出すことができる。本は自分の歴史を思い出すよすがでもあるから、句の作者もまた、栞ひもから時間をさかのぼって、過去の自分をいろいろと思い出しているのではあるまいか。「春燈」には他の季節よりも少しはなやいだ感じを受けるが、それだけに逆に、作者の内心には愁いのような感情が生起しているのでもあろう。はるばると来つるものかな。ちらりと、そんな感慨もよぎっているのだろう。ところで、この栞ひもを出版業界の用語では「スピン」と言う。そしてご存知だろうか、文庫本でスピンをつけているのは、現在では新潮文庫だけである。手元にある方は見ていただきたいが、この文庫のもう一つの特徴は、ページの上端部の紙が不ぞろいでギザギザのままになっていることだ。これはスピンをつけるためにカットできない造本上の仕様なのであり、若者のなかにはこのギザギザが汚いと言う者もいるらしいが、文庫本であろうとスピンがついていたほうがよほど便利なことを知ってほしいと思う。それに私などには反対に、あのギザギザはお洒落にさえ思えるのだが。俳誌「西北の森」(第57号・2006年3月)所載。(清水哲男)


January 3112007

 己がじし喉ぼとけ見せ寒の水

                           安東次男

月五日から節分までの30日間くらいを「寒の内」と呼ぶ。一年間で最も寒さが厳しい季節である。したがって「寒の水」はしびれるほどに冷たく、どこまでも透徹している水。この句がどういう状況で詠まれたかは定かでないが、男たちが数人だろうか、顎をあげ、殊更に喉ぼとけを見せるようにして澄みきった冷たい水を、乾いた喉にゴクゴクと流しこんでいる。喉ぼとけは、たまたまそこに見えていたのだろうが、作者があえて「見せ」と捉えたところにポイントがある。水を飲む音も聴こえてくるようであり、あたかも己を主張するかのように、おのおのの飲み方をしているふうにも見える。とがった「喉ぼとけ」と透徹した「寒の水」の取り合わせは凛然としていて、寸分の弛みもない。いかにも背筋がピンと張った安東次男の句姿である。実際、ご自身も凛としていながら、やさしさのにじむ人柄だった。平井照敏編『新歳時記・冬』には「寒中の水は水質がよいとして、酒を作り、布をさらし、寒餅を作り、化粧水を作る」とある。水道水はともかく、寒中に掬って飲む井戸水のおいしさは格別である。安東次男の句集は、名句「蜩といふ名の裏山をいつも持つ」を収めた『裏山』の他『昨』『花筧』『花筧後』などがある。労作『芭蕉七部集評釈』について、「全部、食卓の上でやった仕事だよ」といつか平然と述懐しておられた。喉ぼとけの句というと、どうしても日野草城の「春の灯や女は持たぬのどぼとけ」という句を想起せずにはいられない。句の情景は対蹠的であり、次男句には男性的色気さえ感じられるし、草城句からは女性のエロチシズムが匂い立ってくるように感じられてならない。『花筧』(1992)所収。(八木忠栄)


February 1622010

 北窓を開きて船の旅恋ふる

                           西川知世

港地と洋上を繰り返し進む船旅は、地球をまんべんなくたどるという醍醐味をしっかり味わうことができる旅だろう。雲の上をひとっ飛びして目的地へ到着する時短の旅とは違う贅沢な豊かさがある。冬の間締め切ったままにしてあった北窓を開き、船の旅を恋うという掲句には、招き入れた春の光りのなかに開放的になった自身の心のありようを重ねている。船の小さい窓から波の向こうに隠れている未知の地を思い描くおだやかな興奮が、これから春らしさを増す未知なる日々への期待に似て胸を高鳴らせているのだ。深く沈んだような北向きの部屋が、明るい日差しのなかでひとつひとつを浮かびあがらせ、きらきらと光るほこりの粒さえ、新鮮な喜びに輝いて見えるものだ。そして、そんな幸せに囲まれたときほど、どこか遠くへの旅を無性に恋うものなのである。〈母に客あり春の燈のまだ消えず〉〈硝子屋の出払つてゐる夏の昼〉『母に客』(2010)所収。(土肥あき子)


February 2222011

 猫の子のおもちやにされてふにやあと鳴く

                           行方克巳

日猫の日。つながる2をニャンと読むものなので、日本限定ではあるものの、堂々と猫の句の紹介をさせていただく(笑)。あらゆる動物の子どもは文句なく可愛いものだが、ことに子猫となると自然と相好が崩れてしまう。小さいものへ無条件に感じる「かわいさ」こそ、赤ん坊の生きる力であるといわれるが、たしかに言葉ではあらわすことができない力が作用しているように思われる。掲句では「にゃあ」ではなく、「ふにゃあ」というところに子猫のやわらかな身体も重なり、極めつけの可愛らしさがあますところなく発揮されている。とはいえ、句集に隣合う〈子猫すでに愛憎わかつ爪を立て〉で、罪ない声を出しながら、一方で好き嫌いをはっきりと見定めている子猫の姿も描かれる。子猫はおもちゃにされながら、飼い主として誰を選ぼうかと虎視眈々と狙っている。〈恋衣とは春燈にぬぎしもの〉〈春の水いまひとまたぎすれば旅〉『地球ひとつぶ』(2011)所収。(土肥あき子)


March 2832012

 影ふかくすみれ色なるおへそかな

                           佐藤春夫

の「おへそ」はもちろん女性のそれだけれども、春夫は女性の肉体そのものを直接のぞいて詠ったわけではない。ミロのヴィーナスの「おへそ」である。一九六四年に上野の国立西洋美術館にやってきて展示され、大きな話題を呼んで上野の山に大行列ができた。その折、春夫は一般の大行列に混じって鑑賞したわけではなく、特別に許されて見学者がいないところで、ヴィーナスに会うことができたのだという。それにしても「すみれ色」とはじつに可憐で奥床しく、嫌味がない。春夫があの鋭い目と穏やかならざる凄みのある表情で、「おへそ」をじっと睨みつけている様子が想像される。私は後年、パリのルーブル美術館で通路にさりげなく置かれたヴィーナス像を、まばらな見学者に拍子抜けしながら、しげしげと見入ったことがあったけれど、さて、おへその影が何色に見えたか記憶にない。同じときに春夫は「宝石の如きおへそや春灯(はるともし)」という句も作っている。「宝石」よりは「すみれ色」のほうがぴったりくることは、誰の目にも明らか。関森勝夫『文人たちの句境』(1991)所載。(八木忠栄)


April 0942014

 いつの間に昔話や春灯(はるともし)

                           塚田采花

夏秋冬、灯りはそれぞれに明るいとはいえ、ニュアンスに微妙なちがいがある。とりわけ春の灯りは明るく暖かく感じられるはずである。作者は越後の人であるから、雪に閉じ込められていた永い冬からようやく抜け出しての春灯は、格別明るくうれしく感じられるのである。夜の団欒のひととき、尽きることのない語らいは、ある時いつの間にか昔話にかわっていたのであろう。家族ならお婆ちゃん、他での集まりなら長老が昔話をゆっくり語りだす。もう寒くもなく、みんな真剣になって耳傾けているなかで、灯りが寄り集まった人たちを、まろやかに照らし出している様子がうかがえる。雪国育ちの筆者も子どもの頃、親戚のお婆ちゃんにねだって、たくさんの昔話を聞いたものである。きまって「昔あったてんがな…」で始まり、「…いきがぽーんとさけた」で終わった。「もっと、もっと」とせがんだものである。采花の他の句に「一つの蝶三つとなりし四月馬鹿」がある。『独楽』(1999)所収。(八木忠栄)


February 1522015

 けふよりの妻と泊るや宵の春

                           日野草城

和九年。「ミヤコ ホテル」連作の第一句です。私は、学生時代に俳句好きの後輩に教わり、何人かで回し読みをしました。性に疎い青年たちが、貴重な情報を共有し合い、想像力を補完し合いながら来るべき日を夢想していました。実行が伴わず、それを想像力あるいは妄想で埋めようとする時期を思春期というのでしょう。昭和の終わり頃までの青年たちにとって、性的な情報は、活字、写真、体験談が中心で、動画情報はポルノ映画と深夜テレビに限られていました。しかし、パソコンを個人 所有できる現在、リアルな動画情報が、青年たちから妄想する力を奪い、共通の謎を語り合える場を奪っているのかもしれません。掲句は、新婚旅行の宵。「春の宵なほをとめなる妻と居り」貞操観念が確固としていた時代です。「枕辺の春の灯は妻が消しぬ」「をみなとはかかるものかも春の闇」こういうところに想像の余地があり、青年たちは口角泡を飛ばし議論します。「薔薇匂ふはじめての夜のしらみつつ」「妻の額に春の曙はやかりき」闇から光へと明るさが変化して、時の経過をたどれます。「うららかな朝の焼麵麭(トースト)はづかしく」連作の中で、唯一、音が存在しています。トーストを噛む音も恥ずかしい。青年たちの間で最も評判のよかった句です。「湯あがりの素顔したしも春の昼」「永き日や相触れし手は触れしまま」青年たちは、ここに理想を読みます。「うしなひしものをおもへり花ぐもり」この連作、若い世代に読み継がれたい。『日野草城句集』(2001)所収。(小笠原高志)




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