February 0622002

 芹の水少年すでに出で発ちぬ

                           山口和夫

語は「芹(せり)」で春。多く湿地や水中に生え、春の七草の一つである。私の田舎でも小川に生えていて、芹というと清らかな水の流れといっしょに思い出す。早春の水はまだ冷たく、その冷たさゆえに、ますます水は清く芹は鮮やかな色彩に写った。そして、その「芹の水」はいつまでも同じ様子で残り、そこに影を落としていた「少年」は「すでに」存在しないと、句は言うのである。このときに少年は作者自身のことでもあるが、他の「出で発」っていった少年をすべて含んでいる。田舎とは、いつだって少年たちが「すでに出で発ち」、彼らの残像が明滅している土地なのだ。立志や野望から、漠然たる都会への憧憬からと、今日でも出で発つ理由はさまざまだろうが、昔は圧倒的に貧困が理由だった。あるいは「醜の御楯(しこノみたて)」として戦地に出で発ち、ついに帰らない者も多かった。そんな思いで芹の水を眺めていると、我とわが身を含めて、若年にして田舎を去っていった者の心の内がしのばれる。作者は七十代。掲句は、そうした少年たちへの清冽な挽歌である。私などには、泣けとごとくに響いてくる。なお若い読者のために補足しておけば、「醜の御楯」とは「卑しい身で天皇のために楯となって外敵を防ぐ者」の意だ。『黄昏期』(2002)所収。(清水哲男)




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