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January 0712002

 日の暮のとろりと伸びし松納

                           福田甲子雄

語は「松納(まつおさめ)」で新年。門松を取り払うこと。昔の江戸では六日、京大阪では十四日に納めた。地方によって異なり、伊達藩では四日に取って「仙台様の四日門松」と言われたそうだ。いつまでも正月気分では藩内がたるんでしまうという、伊達家の生真面目さからだろう。いまの東京あたりでは、今日七日に取る家が多いようだ。いずれにしても、取り払うのは夕方である。いざ門松を取り払ってみると、周囲に漂っていた淑気が消え、一抹の寂しさを覚える。作者もそのように感じているのだが、冬至のころとは違い、やや「日の暮」も伸びてきている。沈んでいく夕陽を眺めやると、いささか「とろりと」もしてきたようで、季節は確実に春に向かっていることが実感された。そんな太陽の様子の形容を、時間のそれに移し替えたのが「とろりと伸びし」。すなわち、門松を取り払った物寂しさのうちにも、春待つ心が芽生えてきた喜びを詠んだ句だ。寂しさを寂しさのまま止めていないので、読者も「とろりと」暖かい心持ちになれる。ところで、今日は七草。次の句も「とろりと」暖かい。「末寺とて七草までを休みをり」(神蔵器)。『新日本大歳時記・新年』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


January 0712009

 七くさや袴の紐の片むすび

                           与謝蕪村

般に元旦から今日までが松の内。例外もあって、十五日までという地方もある。人日とも言う。七草とは、せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ。これら七種を粥にして食べれば万病を除く、とされるこの風習は平安朝に始まったという。蕪村の時代、ふだんは袴などはいたことのない男が、事改まって袴を着用したが、慣れないことと緊張とであわてて片結びにしてしまったらしい。結びなおす余裕もあらばこそ、そのまま七草の膳につかざるを得なかったのであろう。周囲の失笑を買ったとしても、正月のめでたさゆえに赦されたであろう。七草の祝膳・袴姿・片むすび――ほほえましい情景であり、蕪村らしいなごやかさがただよう句である。七草のことは知っていても、雪国の田舎育ちの私などは、きちんとした七草の祝膳はいまだに経験したことがない。ボリュームのある雑煮餅で結構。もともと雪国の正月に七草など入手できるわけがない。三ケ日の朝食に飽きもせず雑煮餅を食べて過ごしたあと、さすがにしばし餅を休み、「七日正月」とか何とか言って、余りものの大根や葱、豆腐、油揚、塩引きなどをぶちこんだ雑煮餅を食べる、そんな〈七草〉だった。江戸時代に七草を詠んだ句は多いと言われるけれど、蕪村が七草を詠んだ句は、この一句しか私は知らない。志太野坡の句に「七草や粧ひかけて切刻み」がある。『与謝蕪村集』(1979)所収。(八木忠栄)


January 0612014

 七種粥ラジオの上の国家澄み

                           須藤 徹

日早いが、「七種」の句を。ラジオを聞きながら、作者は七種粥を前にしている。万病を除くという七種粥の祝膳に向かっていると、普通の食膳に対しているときとは違い、作者はいささかの緊張感を覚えている。七種粥は味を楽しむというよりも、この神妙な緊張感を保ちながら箸をつかうことに意義がありそうだ。おりからのラジオは、今年一年の夢や希望を告げているのだろう。その淑気のようなものとあいまって、七種粥のありようも一種の神々しさを帯びて感じられる。国家も、そして何もかもが澄んでいるようだ。が、作者はかつて国家が澄んだことなど一度もないことを知っている。知っているからこそ、国家が澄んでいるのはラジオの上だけのことと、いわば眉に唾せざるを得ないのである。いや、眉に唾しておく必要を強く感じているのだ。人は誰しもが雰囲気に流されやすい。時の権力は、いつでもそこを実に巧みに突いてくる。対して、身構えることの必要を、この句は訴えている。なお、作者の須藤徹氏は昨年六月に66歳の生涯を閉じられた。合掌。「ぶるうまりん」(27号・2013)所載。(清水哲男)




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