December 18122001

 炭俵的にぞ立つてゐようと思ふ

                           小川双々子

語は「炭俵(すみだわら)」で冬。当歳時記では「炭」の項に分類。最近はさっぱり見かけないけれど、あるところにはあるのだろうか。米俵とは違って、カヤなどで編んだ目の粗い俵である。もちろん、名のごとく炭を保管しておくための入れ物だ。炭がいっぱいにつまっている俵は、がっしりと直立している。が、中の炭が減ってくると、当たり前のことながら、だんだんへなへなと崩れそうに傾いてくる。だからときどき、重心を戻してやるために、持ち上げてゆさぶってやる必要がある。作者は、そんな不安定な「炭俵的にぞ」立っていたいと述べている。すなわち「俺が、私が」と自我を丸出しに直立して生きるのではなく、中身が少なくなれば重心がそれなりに変化していき、いまにも倒れそうになり、誰もゆさぶってくれなければ倒れかねない生き方をしたいと言うのである。阿弥陀仏の「他力本願」に似た心境だろうが、作者が敬虔なキリスト者であることを思えば、さまざまな宗教の求めるところは、ついにこのあたりに集約されるのかと考えさせられた。そんな大真面目な物言いはべつにして、傾いた「炭俵」の姿には、なかなか愛嬌がある。この句にもまた、大真面目の重心がどこか妙にずれているような不思議な愛嬌が感じられる。『異韻稿』(1997)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます