December 14122001

 冬帽や画廊のほかは銀座見ず

                           皆吉爽雨

前の句だろうか。時間がなくて、調べられなかった。当時の都会のいっぱしの男は、好んで中折れ帽をかぶったようだ。昔の新聞の繁華街の様子を写真で見ると、そう思える。だとすれば、作者の「冬帽」も中折れ帽だろう。脱ぐときは、ちょいと片手でつまむようにして脱ぐ。そこに、その人なりのしゃれっ気も表われる。句意は明瞭。寒い中、それでも作者が銀座に出かけていくのは画廊が唯一の目的であり、その他の繁華には無関心だと言うのである。「冬帽」と「画廊」との結びつきの必然性は、女性とは違って、男が画廊に入るときには必ず帽子を脱ぐことによる。それから、室内の帽子掛けにかける。銀座は、昔から画廊の多い街だ。一箇所を見終わると、すぐ隣りのビルに入ったりする。次々と訪れるたびに帽子を脱ぐので、どうしても「冬帽」が、つまむ手に意識されるというわけだ。繁華には目もくれず絵画に没頭する作者の気概と自負が、帽子を扱う微妙な所作に収斂されているように読めて面白い。いつもの余談になるけれど、私が俳人のなかで、どなたかを「先生」と呼ぶことがあるとすれば、作者はその筆頭に来る。一度もお会いしたことはなかったが、先生は環境の激変に翻弄されていた私の少年期に、拙い投稿句をいつも「毎日中学生新聞」に載せてくださった。今日までの私の俳句愛好は、爽雨先生に発している。平井照敏編『俳枕・東日本』(1991・河出文庫)所載。(清水哲男)




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