G黷ェ~フ雲句

December 07122001

 実のあるカツサンドなり冬の雲

                           小川軽舟

語は「冬の雲」。季節によって雲の表情は変化するので、それぞれの季節を冠して季語として独立している。「冬の雲」は暗く陰鬱なものと、晴れた日の美しく晴朗なものとがある。掲句の雲はどちらだろうかと一瞬戸惑って、前者だろうと判断した。すなわち「実(じつ)のあるカツサンド」のように、ずっしりとした分厚い雲だ。たしかに「カツサンド」には、実のあるものとないものとがある。いくらカツの量が多くても、パンとしっくり合っていなくて、お互いにソッポを向いているようなのがある。食べるときに、両者がとにかく意地悪く分離してしまい、始末におえない。そこへいくと、たとえば私の好きな「井泉」のそれは、まことに両者の肌合いがしっくりいっており、特別にカツが大きいわけじゃないのに、作者言うところの「実」があるとしか言いようがないのだ。この「実のある」という措辞を「カツサンド」に結びつけたセンスの良さ。加えて、食べた後(最中でもよい)の満足感を「冬の雲」に反射させた感度の良さに感心した。「実のあるカツサンド」を食べたからこその「冬の雲」は、単に陰鬱とは写らずに、むしろ陰鬱の充実した部分だけが拡大されて写る。そうした「冬の雲」の印象は誰にでもあるはずなのに、それを作者がはじめて言った。ささやかであれ、一般的に満ち足りた心は、直後(最中)の表現などはしない、いや、できない。そこのところを詠んだ作者の粘り腰に、惚れた。俳誌「鷹」(2001年4月号)所載。(清水哲男)


December 30122004

 搗きたての冬雲の上ふるさとへ

                           正木ゆう子

語は「冬(の)雲」。いまや「ふるさと」へも飛行機で一っ飛びの時代だ。帰省ラッシュは今日もつづく。句のように、弾んだ心で乗っている人もたくさんいるだろう。地上から見上げると空を半ば閉ざしている暗い冬の雲も、上空から見下ろせば、日の光を浴びてまぶしいほどに真っ白だ。そのふわふわとした感じを含めて、作者はまるで「搗きたての」餅のようだと詠んでいる。いかにも子供っぽい連想だが、それだけ余計に読者にも楽しい気分が伝わってくる。ただしこの楽しさは、私のような飛行機苦手男には味わえない(笑)。なんとも羨ましい限りである。話は句から離れるが、その昔、ぎゅう詰めの夜行列車に乗っていて、よくわかったことがあった。周囲の人の話を聞くともなく聞いていると、帰省ラッシュとはいっても、楽しい思いで乗っている人ばかりじゃないということだった。年末年始の休暇を利用して厄介な話し合いのために帰るらしい人がいたり、都会暮らしを断念して都落ちする人がいたりと、乗客の事情はさまざまだ。そんな人たちを皆いっしょくたにして、テレビ・ニュースは帰省の明るさだけを強調するけれど、あのように物事を一面的楽天的にとらえるメディアとは何だろうか。そこで危険なのは、私たち視聴者がそうした映像に引きずられ慣れてしまうことだ。何も考えずに、物事に一面的楽天的に反応してしまうことである。テレビは、生活のための一つの道具でしかない。その道具に、私たちの感受性をゆだねなければならぬ謂れは無い。『水晶体』(1986)所収。(清水哲男)


November 23112008

 自動ドア閉ぢて寒雲また映す

                           松倉ゆずる

動的に動くものに対して、わたしはなかなか慣れることができません。自動改札では、いくども挟まれたことがありますし、自動的に出てくるはずの水道も、蛇口の下にどんなに手をかざしても、水が出てこないことがあります。本日の句に出てくる自動ドアも、ものによって開くタイミングが異なり、開ききるまえに前にすすんで、ぶつかってしまうことがあります。それはともかく、この句を読んで思い浮かべたのは、ファーストフード店の入り口でした。つめたく晴れ渡った空の下の、繁華街の一角、人通りの多い道に面した店の自動ドアは、次から次へ出入りする人がいて、なかなか閉じることがありません。それでもふっと、人の途切れる瞬間があって、やれやれと、ドアは閉じてゆきます。そのガラスドアに、空と、そこに浮かぶ冬の雲の姿がくっきりと浮かんでいるのが見えます。やっと戻ってきてくれた空と雲も、早晩、人の通過に奪い去られてしまうのです。次にやってくる客は、自動ドアの中の雲に足を踏み入れて、店に入ってゆくのです。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


December 04122008

 くちびるへ鞭のにほひの冬の雲

                           須藤 徹

二月に入り寒さも本格的になってきた。「くちびる」を意識するのは冷たい空気に唇が乾燥して荒れるこれからだろう。細く裂けてざらっと舌に触れる唇の皮、それをそっと歯先にはさんで痛いぎりぎりまで引っ張ってみる自虐的な気持ち。その気分が「鞭」という言葉で表わされているようだ。ひゅっと宙を切る鞭の鋭い音や口に感じる皮の味を「にほひ」に転化させることで鞭が実在感をもって迫ってくる。感覚に直接的に訴えかける物の匂いを「冬の雲」に繋げることで、内部へ向かいかけた読み手の気分が雲に閉ざされた空を見上げる視線へと切り替わる。言葉と言葉の連関をたどることで味覚、嗅覚、視覚と感覚が立体的に立ち上がり、冬ざれの景へと広がってゆくのだ。そのとき初めて、何気なく置かれているように見える言葉が作者によって周到に配置されたものであるのに気づかされる。こんなふうに言葉で別の世界へ誘われるたび俳句が好きになる。『さあ現代俳句へ』(1989)所載。(三宅やよい)


January 1512012

 冬雲は静に移り街の音

                           高浜年尾

があって、昨年の暮れに2週間ほどパリに滞在していました。緯度が高く、さぞ寒いだろうと思って、完璧な防寒をして向かいました。しかし、行ってみればさほど寒くはなく、あたたかいと言ってもいいような日もありました。その2週間、ほとんどの日が朝から厚い雲に覆われ、青空を仰ぐことが出来たのはたったの数日でした。日本に帰ってまず感じたのは、「なんと明るく日の降り注いでいる冬だろう」ということでした。ですから、本日の句を読んだ時に頭に浮かんだのは、パリで過ごした日々でした。何百年も建ち続けている、胸苦しくなるほどに彫りもので飾られた街の上を、うっとりと見下ろすように雲が動いてゆく。空の「静」と、地上の「音」の対比が、冬の中に鮮やかに並んでいます。視野の大きな、読んでいると自然に、伸びやかな心持になります。『日本大歳時記 冬』(講談社・1981)所載。(松下育男)




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