November 28112001

 路上に蜜柑轢かれて今日をつつがなし

                           原子公平

刻。車に轢(ひ)かれた「蜜柑」が、路上にぐしゃりと貼り付いていた。飛び散った果汁の黒いしみも、見えている。そこで作者は今日の自分を「つつがなし」、何事もなく無事でよかったと感じたというのである。健康な人であれば、日常が「つつがなく」過ぎていくのが普通のことだから、毎日その日を振り返って「つつがなし」と安心したりはしない。ただ、こんな場面に偶然に出くわすと、あらためて我が身の息災を思うことはある。そういうことを、寸感として述べた句だろう。しかし、もしも轢かれているのが猫や犬だったとしたら、こうはいくまい。作者は自分の息災を思うよりも前に、同じ動物として、轢死した猫や犬の痛みを我が身に引き込んでしまうからだ。ああ、あんなふうにならなくてよかった。とは、とても思えないし、思わない。掲句を眺めていると、自然にそういう思いにもとらわれてしまう。それと「つつがなし」という思いは、絶対的な根拠からではなく、相対的な視点から出てくることがよくわかる。もとより、作者はそんなことを言っているわけではないのだが、そういうことも思わせてしまうところが、俳句の俳句たる所以の一つであろうか。読者諸兄姉には、本日も「つつがなく」あられますように。『海は恋人』(1987)所収。(清水哲男)




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