November 14112001

 戸を立てし吾が家を見たり夕落葉

                           永井龍男

方帰宅すると、まだ明るいのに既に雨戸が立てられていた。家人が留守をするので、きちんと戸締まりをしてから出かけていったのだ。むろん作者はそのことを承知しているのだが、いつもとは違う家の様子に思わず足を止めて、しばし眺め入っている。「吾が家」ながら、どこか自分を受け入れぬようなよそよそしい感じなのだ。なんだか「吾が家」が、さながら異次元の存在のようにも写ってくる。ときおり舞い落ちてくる木の葉の風情もうそ寒く、作者はやおらポケットに鍵を探す……。「見たり」といういささか大仰な表現が、よく効いている。こんなときでもなければ、自分の家をわざわざ「見たり」と強調する感情はわいてこない。つまるところ、この淡い寂寥感は、立てられた雨戸によって象徴される家人の不在から来ている。中に誰も人がいない家は、それこそ大仰に言えば、家とは言えないのだ。人が存在してこそ、家が家として機能するわけで、あるいは人の暮らす家として安定するのであって、そのことを作者はさりげなくも鮮やかに視覚から捉えてみせている。形容矛盾かもしれないが、淡くも鋭い感覚の句として印象に残る。(清水哲男)




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