November 07112001

 凪ぎわたる地はうす眼して冬に入る

                           飯田蛇笏

冬。暦の上では冬に入った。もとより今日から急に寒くなるわけでもないが、立冬と聞くと、人は「そういえば」と周囲に冬の気配を感じとるものだ。どこの何に、そしてそれをどのように感じ、如何に詠むのか。立冬の句は枚挙にいとまもないが、それぞれの句はそれぞれに冬の気配を述べていて、みなそれなりに味わいがある。読み比べると、なかなかに面白い。そんななかで、掲句は異色に属するだろう。というのも「地はうす眼して」と、山野を擬人化しているからだ。「凪(な)ぎわたる」は、この場合には、空がよく晴れておだやかな状態にあること。したがって、ちっとも厳しい冬を思わせる空ではないのだけれど、しかし、その下に広がる山野をつくづく眺めやると、なんだか「うす眼」をあけているようである。「うす眼」をあけながら、よく晴れたおだやかな空に、鋭敏に眠りの時が近づいてきたことを感じ取っている風情だ。いつかも書いたように、私は動植物やその他の自然の擬人化を好まない。ここでは理由は省略するけれど、この句においては例外的に擬人化が成功していると思った。広い山野に冬が兆すというとき、つまり秋から冬への季節のうつろいの繊細かつ微妙な変化を言うときに、それらを一挙に一言で仕止めるためには、短い俳句では、この方法くらいしかないかなと思うからである。それにしても、このような句は恵まれた自然のなかでの生活からしか現れることはないだろう。今日の東京の地は、たぶんまだ眼をなんとなく見開いているはずだ。むろん、そこに暮らす人々も、また。『家郷の霧』所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます