October 28102001

 柿むいて今の青空あるばかり

                           大木あまり

天好日。「今の」今しか「青空」を味わえぬ静かな時間。理屈をこねて鑑賞する野暮は承知で述べておけば、句を魅力的にしているのは「柿むいて」という行為が、あくまでも過程的なそれであるからだろう。「柿むいて」ハイおしまいというのではなく、むく目的は無論食べるための準備だ。この句の上五を、たとえば「柿食べて」「柿食えば」とやっても、俳句にはなる。なるけれど、食べるという自足感が「青空」の存在を希薄にしてしまう。食べちゃいけないのだ。下世話に言えば、よく私たちは「さあ、食うぞっ」という気持ちになったりするが、「柿むけば」は「さあ、食うぞっ」のはるかに手前の段階であり、ひとかけらの自足感もない。手慣れた手つきで、ただサリサリと、何の思い入れなくむいているだけである。事務的と言うと「事務」に怒られるかもしれないが、しかし柿をむくというような過程的な行為である「事務」の目からすると、「今の青空」の「今」が自足した目よりも強く意識されるのだと思う。「今」を貴重と感じる心は、いつだって自足のそれからは遠く離れているのだと……。たかが、作者は柿をむいているにすぎない。その「たかが」が「今の青空」と作者との交感関係を、いかに雄弁に語っていることか。でも、やっぱり、こんなことは書くまでもなかったですね。『火のいろに』(1985)所収。(清水哲男)




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