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October 07102001

 男は桃女は葡萄えらびけり

                           大住日呂姿

っはっは、コイツはいいや。愉快なり。ナンセンス句とでも言うべきか。無内容だが、その無内容に誘いこむ手つきが傑作だ。縦書きで読んだほうがよくわかると思うが、「男は桃」と出て「女は葡萄」と継ぐ。ここで読者を、いったん立ち止まらせようという寸法だ。読み下しながら「ん?、どういうことかな」「『桃女』かもしれないな」「何の比喩かな」などと、読者の頭のなかでは、いろいろな想像が働きはじめる。いやでも、そこで一呼吸か二呼吸かを置かされてしまう。で、下五にはしれっと平仮名で「えらびけり」と来た。ここに「選びけり」と漢字が混じると、効果はない。「男」「桃女」「葡萄」といっしょに、最初から「選」も目に入ってしまうからだ。また縦書きのほうが、平仮名の効果をあげるためには、句全体が目に入りにくいので有効だと思う。とにかく「やられた」というか「こんにゃろう」というか、ここで読者のせっかくの想像世界は実に見事に裏切られることになる。何故こんなメにあうのかというと、性と果物の取り合わせはしばしば何かの暗喩として用いられることを、私たちが知っているからだろう。だから、つい想像力をたくましくしたくもなるのだ。が、そんな教養やら常識やらの踏み台を、いとも簡単にすっと外されたので、コロっとこけちゃったというわけ。今日もいい天気。『埒中埒外』(2001)所収。(清水哲男)


September 2792005

 黒葡萄包む「山梨日日」に

                           中村与謝男

語は「葡萄(ぶどう)」で秋。作者は関西在住だから、山梨に旅したときの句だろう。山梨は、ご存知のように有数の葡萄の特産地だ。葡萄狩りを楽しんだのだろうか。摘んだ黒葡萄をお土産に持ち帰るのに、「山梨日日(新聞)」で包んだというのである。ただそれだけの句であるが、他の新聞ではなく、わざわざ地元紙を選んで包んだところがミソなのだ。つまり作者は、葡萄だけではなくて,それを包んだ新聞までが土産になるという思いつきを喜んでいる。どうせ包むならそうありたいと、ちょっと私にもそういうところがある。どの地方でも読める全国紙なら、土産をもらった人はすぐに捨ててしまうだろうが、普段は読めない地方紙だと、目を通したくなるのが人情だ。少なくとも、見出しや写真だけにでも注目してくれるだろうと、作者のいわばサービス精神が働いている。特産物を、地元の社会的な雰囲気といっしょに届けるという発想は嬉しい。ちなみに、昨日付「山梨日日」朝刊のヘッドラインから拾っておくと、「秋季関東高校野球、4強出そろう」「10月2日の須玉甲斐源氏祭り、戦国時代の櫓が登場」「甲府一高伝統の『強行遠足』、野辺山目指し健脚競う」等々だ。「強行遠足」の小見出しには「男子の7割、女子9割が完走果たす」とある。こんな記事の載っている新聞で葡萄が包んであったとしたら、私は喜んで読んでしまうだろう。『樂浪』(2005)所収。(清水哲男)


October 12102006

 新聞を大きくひらき葡萄食ふ

                           石田波郷

朝の駅で買った新聞をお見舞に差し入れたことがある。長らく入院していたその人は紙面に顔を近づけると「ああいい匂いだ」と顔をほころばした。真新しいインクの匂いは一日の始まりを告げる朝の匂い。朝刊を食卓にひろげ置いて、たっぷりと水気を含んだ葡萄を一粒ずつ口に運ぶ。「大きくひらき」という表現に、紙面にあたる朝の光や、窓から流れ込んでくる爽やかな空気が感じられる。葡萄は食べるのに手間がかかる果物。記事を目で追いつつ手を使って含んだ葡萄の粒からゆっくり皮と種をはずす。片手で吊り革に掴まり、細長く折った新聞をささえ読むのとは違う自分だけの朝の時間だ。そのむかし、巨峰、マスカット、といった大粒品種は値段も高く、普段の生活で気楽に食べられる果物ではなかった。今でも柿や無花果といった普段着の果実にくらべ大きな房の垂れ下がる葡萄は色といい、形といいどこかお洒落でエキゾチックな雰囲気を漂わせている。この句のモダンさはそんな葡萄の甘美な印象と軽いスケッチ風描写がよく調和しているところにあるのかもしれない。とある朝の明るく透明な空気が読むたびに伝わってくる句だ。『鶴の眼』(1939)所収。(三宅やよい)


September 2992009

 密密と隙間締め出しゆく葡萄

                           中原道夫

一度通う職場への途中に葡萄棚を持つお宅がある。特別収穫を気にする様子もなく、袋掛けもされない幾房かの固くしまった青い葡萄を毎年楽しみに眺めている。可愛らしいフルーツにはさくらんぼをはじめ、苺や桃など次々名を挙げることができるが、美しいフルーツとなるとなにをおいても葡萄だと思う。たわわに下がる果実、果実を守る手のひらを思わせる大きな葉、日に踊る螺旋の蔓の先など、どれをとっても際立って美しく、古来より豊かさの象徴とされ、神殿の彫刻にも多く刻まれているそれは、時代を越え、愛され続けてきたモチーフである。なにより美酒になることも大きな魅力で、酒神ディオニソス(バッカス)が描かれるとき、かならずその美しい果実が寄り添っている。掲句の下すぼまりの語感の固い感触に、育ちゆく葡萄の若々しい姿と、締め出した隙間に充実する果実に内包される豊かな果汁が想像される。サニールージュ、ヴィーナス、ユニコーン、涼玉、マニキュアフィンガー、これらはどれも葡萄の品種。それぞれに美を連想させる名称である。『緑廊』(2009)所収。(土肥あき子)


October 18102009

 手榴弾つめたし葡萄てのひらに

                           高島 茂

句を読み慣れている人には容易に理解できる内容も、めったに句を読む機会のないものには、短すぎるがゆえに何を表現しているのか正確にはわからないことがあります。たとえば本日の句では、てのひらに載っているのは手榴弾でしょうか、あるいは葡萄でしょうか。どちらかがどちらかの比喩として使われていると思われるものの、断定ができません。間違いなくわかるのは、「つめたし」が手榴弾にも葡萄にも感じられるということ。どちらにしても双方の、小さな突起を集めた形と、個々の表面に感じる冷たさが、作者の複雑で繊細な心情をしっとりと表しています。ほどよい大きさの、それなりの重さを手に持つことは、なぜか気持ちのよいものです。生き物ではなく、物に触れることによってしか保てない心というものが、たしかにあります。手榴弾、葡萄という魅力的に字画の多い漢字を、「つめたし」「てのひらに」のひらがながやさしく囲っています。じっと冷え切った物に対峙するようにして、柔らかな皮膚をもった私たちが、句の中に置かれています。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)


October 25102009

 一つぶの葡萄の甘さ死の重さ

                           稲垣 長

週に続いて葡萄の句です。先週の葡萄は手のひらに乗せられていましたが、今週の葡萄は、薄い皮をめくられ、静かに口の中に入れられています。思えば時代と共に、葡萄にも改良が重ねられてきたようで、わたしが子供の頃に食べたものは、粒も小さく、中には大きな種が入っていて、種の周りはひどくすっぱかった記憶があります。だから梨とか桃のように、全体がまるごと甘い果物ほどには、ひかれることはありませんでした。しかし今では、粒も見事に大きく、種もなく、どうだといわんばかりの見事な果物になりました。ここに描かれている「一つぶ」も、現代の見事な姿の葡萄なのでしょう。人として生れ出て、なすべきことはたくさんありますが、日々、ひたすらに食べ続けることが、比喩でもなんでもなく、そのまま生きていることの証になっています。だからなのでしょうか。球形の見事な形と、とても甘い味をした、命の美しさそのもののような葡萄を、生死の秤の片方に置いてみたくなる感覚は、よくわかります『朝日俳壇』(朝日新聞・2009年10月19日付)所載。(松下育男)


May 1852010

 夏帽子研修生と書かれたる

                           杉田菜穂

年度の四月一日から一ヵ月が過ぎたこの時期、新しい環境にそろそろ慣れるか、はたまた五月病と呼ばれる暗がりに落ち込んでしまうかは、大きな分かれ道である。見回せば木々の青葉は噴き出すような勢いで茂り、ジャスミンやバラなど香りの強い花が主張し、太陽はストレートに肌を射してくる。過激な自然を味方につけ一層元気になる人もいれば、ストレスを積み重ねている人にとっては圧倒され萎縮してしまう陽気なのかもしれない。研修や実習を経てから、本格的に就業する職場はさまざまだが、どれも特定した分野での必要な知識が磨かれる期間であり、初めての経験は緊張と高揚が繰り返されていることだろう。「研修生」とあることで、多少の失敗も「まぁ、しょうがないか」で済ませてもらえることもあるが、一人前までの道のりは遠くけわしいものだ。掲句は「夏帽子」の効果で、明るさが際立ち、若々しくのびのびとした肢体が描かれた。まばゆい夏の日差しのなかで、初々しい研修生たちの声が明るく響き、生涯のなかでもっともエキサイティングな一時期が過ぎてゆく。〈好き嫌い好き嫌い好き葡萄食ぶ〉〈クリスマスツリーの電気消す係〉『夏帽子』(2010)所収。(土肥あき子)


October 02102011

 原爆も種無し葡萄も人の智慧

                           石塚友二

の句を初めて目にした時には、人の浅智慧が冒した自然冒涜への抗議かと感じました。でも、それはどうも勘違いだったようで、句が表現しているのは、この世に人が加えた変更を、ただ並べて見せただけにすぎません。それにしても、種無し葡萄に並べられた原爆という言葉の存在は、重く感じられます。原発の問題がこれほど身近に迫ってきた今年だからでもあるのでしょう。繰り返すようですが、句は、「原爆」と「種無し葡萄」を並置しただけのもので、ことさら人の智慧を誉めているわけでも、批判しているわけでもありません。つまりはそこが、俳句の俳句たる所以なのでしょう。あるいは俳句に限らず、表現物というのは、おおむねそのようなものなのかもしれません。事実を平然と読者に見せることの恐さ。あとは余計な批評を加えない。『日本大歳時記 秋』(1971・講談社) 所載。(松下育男)


October 27102011

 手に持ちて葡萄は雨の重さかな

                           北川あい沙

緑のマスカット、紫のデラウェイ、深い藍色のピオ―ネ、青紫のベリーA、様々な種類の葡萄が店先に並んでいる。葡萄はたとえ国内産であっても、遠いところからやってきた異国の果物という感じがする。口に含んでつるりと冷たい実が舌に滑り落ちる。大きな雨粒があれば葡萄のように優しい味がするだろうか。雨に重さがあるとするなら、明るくて軽い春雨は赤いイチゴ。しとしと冷たい秋雨は少し持ち重りする紫の葡萄。というところだろう。見えない雨の重さを身近な果物に仮託することで、しとしと降り続ける陰気な雨も好ましく思われる。今日は朝から雨が降っているけど、このような句と出会うとどんよりした気持ちが明るくなる。『風鈴』(2011)所収。(三宅やよい)


October 18102012

 友の子に友の匂ひや梨しやりり

                           野口る理

の頃は赤ん坊や幼児を連れている若い母親を見かけることがほとんどない。子供の集まる場所へ縁がなくなったこともあるのだろう。乳離れしていない赤ん坊だと乳臭いだろうから、目鼻立ちも整い歩き始めた幼児ぐらいだろうか。ふっとよぎる匂いに身近にいた頃の友の匂いを感じたのだろう。中七を「や」で切った古風な文体だが、下五の「梨しやりり」が印象的。「匂い」の生暖かさとの対比に梨が持つ冷たい食感や手触りが際立つのだ。「虫の音や私も入れて私たち」「わたくしの瞳(め)になりたがつてゐる葡萄」おおむね平明な俳句の文体であるが、盛り込まれた言葉にこの作者ならではの感性が光っている。『俳コレ』所載。(三宅やよい)




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