October 06102001

 人なぜか生国を聞く赤のまま

                           大牧 広

が家に遊びに来たドイツ人が、しきりに首をひねっていた。日本人は、なぜ他人の年齢のことを聞くのか。たいていの初対面の人が聞くのだという。「べつに何歳だっていいじゃないか」。「そりゃね、たぶん話題の糸口をみつけたいからだよ」と、私。そういえば、外国人から年齢を尋ねられた覚えはない。逆に、こちらから何歳くらいに見えるかと聞いたことはある。掲句のように、また私たちは相手の「生国(しょうごく)」をよく「聞く」ようだ。とくに意識して聞くことはあまりなく、なんとなく聞いてしまう。やはり「話の接ぎ穂」を探すためではなかろうか。「生国」がたまたま同じだったりすると故郷談義に花を咲かせることができるし、違ったとしても、旅行などで訪れたことがあれば話はつづく。「年齢」や「生国」の話題は、要するに当たり障りなくその場をやり過ごすための方便なのだ。そのあたりが、とくに理屈っぽい話の好きなドイツ人には解せないのだろう。この句の作者は「『生国』なんて、どうでもいいじゃないか」と言っているのではない。作者自身が聞くことも含めて、「なぜかなあ」と思っているだけだ。目に写っているのは、北海道から九州まで、どこの路傍で咲いても同じ風情の「赤のまま(犬蓼)」。人だって同じようなものなのになあ、と。『午後』所収。(清水哲男)




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