September 2392001

 母の行李底に団扇とおぶひひも

                           熊谷愛子

悼句だろう。亡くなった母親の遺した物を整理するうちに、行李(こうり)を開けたところ、いちばん底のほうから「団扇(うちわ)」と「おぶひひも」が出てきた。彼女は、何故こんな役立たずのものを大事に仕舞っておいたのか。……といぶかしく思いかけて、作者はハッとした。覚えているはずもないが、この「おぶひひも」は赤ん坊の私をおんぶしてくれたときのもの。となれば、この「団扇」は暑い盛りに私に風を送ってくれたものなのだ。二度と使うことはないのに、こうやってとっておいた母の心が、わかったような気がした。母は「行李」を開けたときに、ときどき底のものを見ていたにちがいない。私が反抗したとき、私に馬鹿にされたとき、そして私が結婚して家を出たときなどに……。とくに女性にはプライバシーもへちまもなかった時代には、自分用の「行李」だけは、プライバシーの拠り所だったはずだ。だから、そこに仕舞ってあるのは単なる「物」以上の意味をこめた「もの」も収納されていたのだと思う。このときに「行李」の「底」とは、「心の底」と同義である。何度か読んでいると、自然に涙がにじんでくる。名句である。「おぶひひも」の平仮名が、切なくも実によく効いている。「団扇」は夏の季語だから、一応夏に分類はしておくが、句の本意からすると無季が適切かと。『旋風(つむじ)』(1997)所収。(清水哲男)




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