September 2092001

 日と月のめぐり弥栄ねこじゃらし

                           池田澄子

観や背景を大きく構えて、小さなものにストンと落とす。俳句では、よく見かける手法の一つだ。このときに問われるのは(句が面白くなるかどうかを決めるのは)、大きな構えよりも小さなものの選択眼だろう。揚句は「日と月のめぐり」と大きく構え、駄目押しのように「弥栄(いやさか)」と、構えにつっかい棒までしている。「弥栄」は、発展繁栄を祈る掛け声。結婚披露宴の乾杯の音頭などで「御両家の弥栄を……」と、よく耳にする。「日と月のめぐり」はまことにおめでたく、「弥栄」とまで叫んだ作者の目がさてどこに落ちるのか。と、期待して読むと、なんとそこらへんに生えている「ねこじゃらし」に落ちたのだった。「なあんだ」と拍子抜けの面白さを感じることもできるし、一歩進めて「ねこじゃらし」の平凡から「日々好日」の庶民感覚を読むこともできる。最初私はそんなふうに読んだが、なんだか違うような気がして、何度か反芻してみた。そして思ったのは、作者が「ねこじゃらし」に見ているのは、その平凡さではなくて、その無表情ではないのかということだった。この草は、いつだって「どこ吹く風」と揺れている。そう考えると「弥栄」の叫びは、滑稽なほどに空しく響いてくる。叫んだ作者の心情などは、あっさりと無視されたというわけだ。すなわち「日と月のめぐり」に余計なつっかい棒は無用であり、ただ虚無的に「日と月」はめぐるのみなのだと、私のなかでの句意はここに落ちることになった。「俳句研究」(2001年10月号)所載。(清水哲男)




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