September 1892001

 すずなりの茱萸をかざして通りけり

                           若林いち子

だちょっと「茱萸(ぐみ)」の熟れる季節には早いだろう。霜の降りるころになると、実の赤さが増す。その頃の情景だ。かつての山の子としては、一読「わあっ、なんと豪勢な」と声をあげたくなるような句である。真っ赤な実が「すずなりに」なった大枝を、これ見よがしにサワサワと「かざして」通る人。そこらへんにいくらでも茱萸の木は自生していたが、このような「大物」に出会うことは、めったになかった。だから、作者とともに私もまた、通る人をただうらやましく見つめるだけである。食べたい欲望よりも、所有欲をかきたてられるのだ。柿でも栗でも、あるいはアケビなどでも、野の物に対する気持ちはみな同じように働いていた。そういうことを思い出した。ところで、当歳時記が定本としている角川版歳時記では「茱萸」を秋としているが、厳密に言うと「茱萸」は季語ではない。「茱萸」という名前はグミ科グミ属の総称だからだ。冬をのぞいた三季に、種類の異なったそれぞれの「茱萸」がある。つまり、単に「茱萸」という名前で特定できる植物は存在しないわけだ。したがって、もっともポピュラーなこの季節のものは「秋茱萸」と言い習わしてきた。揚句の情景から推察して、読者はこの「茱萸」を「秋茱萸」と判断することになるのである。『新歳時記・秋』(1989)所載。(清水哲男)




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