August 2882001

 出穂の香のはげしく来るや閨の闇

                           波多野爽波

会で、穂高(ほたか)町(長野県南安曇郡)を訪れた。敗戦までは陸軍の練兵場として使われ、戦後になって開拓された土地だという。いかにも新興の田園地帯らしく、見渡すかぎりの水田のなかを走る道はまっすぐだ。有名な碌山美術館や山葵田などいろいろと見物して歩いたが、いちばん印象深かったのは黄色く色づきはじめた稲の発する香りだった。農村に育った私だが、すっかり忘れていた濃密な香りである。何度も腹いっぱい吸い込んできた。これだけでも、出かけてきた甲斐があると思った。爽波はこのとき大阪市内に住んでいたから、やはり旅先での印象だろう。「閨(ねや)」は、寝室。「出穂(でほ)」のころはまだ暑いので、網戸だけを閉めた部屋で寝ていると、風に乗った「出穂の香」が、予想外の濃密さで流れ込んできた。むせびたくなるほどだ。もはや「閨の闇」全体がその香で満たされ、胸を圧してくるようである。こうなると、なかなか眠れそうにない……。都会生活に慣れた人が田舎に出かけると、ときとして思いがけないことに遭遇する例の一つだ。でも、作者はこのことを煩わしく思ったのではない。眠れずに闇の中で目を開けながら、一方で充実した自然とともにある自分の状態に満足している。『一筆』(1990)所収。(清水哲男)




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