August 2482001

 歯痛に柚子当てて長征の夜と言いたし

                           原子公平

の「歯痛」は心細い。歯科医に診てもらうためには明日まで待たなければならないし、そのことを思うだけでも、痛みが増してくるようである。とりあえず、手元にあった冷たい「柚子(ゆず)」を頬に当ててみるが、ちょっと眠れそうにないほどの痛みになってきた。とにかく、このまま今夜は我慢するしかないだろう。そんなときに、人は今の自分の辛さよりももっと辛かったであろう人のことを脳裏に描き、「それに比べれば、たいしたことではない」と、自分を説得したがるもののようだ。で、作者の頭に浮かんだのが「長征(ちょうせい)」だった。「長征」とは1934年秋に、毛沢東率いる中国共産党が、国民党軍の包囲攻撃下で江西省瑞金の根拠地を放棄し、福建・広東・広西・貴州・雲南・四川などの各省を経て、翌年陝西省北部に到着するまで約1万2千5百キロにわたる大行軍をしたことを指す。なるほど、たしかにこの間の毛沢東らの艱難辛苦に比べれば、一夜の「歯痛」ごときは何でもないと思えてくる。しかし、そう思えてくるのは一瞬で、結局頼りになるのは毛沢東の軍隊ではなく、やはり手元のちっぽけな「柚子」一個でしかないのが、悲しくも可笑しい。「言いたし」に、泣き笑いの心情がよく出ている。「長征」を語れる人も少なくなってきた。『海は恋人』(1987)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます