August 1982001

 それぞれの窓に子がみえ夜は秋

                           小倉涌史

者は「夜は秋」と詠んでいるが、季語の分類としては「夜の秋」。秋の夜ではない。晩夏などに、どことなく秋めいた感じのする夜のことである。したがって、夏の季語。暦的にではなく、気分としてはちょうど今頃の季節だろう。団地かマンションか、たくさんの「窓」のある集合住宅を何気なく仰ぐと、風を入れるために開け放たれている「それぞれの窓」に、子供の姿が見える。全部の窓に見えるわけではないが、思いがけないほどに、あの窓にもこの窓にも見えたのである。子供が起きているのだから、まだ宵のうちだ。理屈を述べれば、なべて子供は活力の象徴だから、衰えていく夏の活力に抗するように「それぞれの窓」に元気がみなぎっていることを、作者は素朴に喜んでいる。理屈をはずせば「ああ、子供って素敵だなあ」であり、「家族っていいなあ」である。あえて「夜の秋」と取り澄ました歳時記的な措辞を避け、思わずもという感じで「夜は秋」とつぶやいたところに、作者の静かな染み入るような喜びの情感が浮かび上がった。やがて、本格的な秋がやってくる。そうなると、「それぞれの窓」は固く閉められ、しかもカーテンで覆われて、子供らの姿も消えてしまう。その予感を孕んでいるからこそ、なおのこと句が生きてくるのだ。『受洗せり』(1999)所収。(清水哲男)




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