August 1682001

 盆三日あまり短かし帰る刻

                           角川源義

え火から送り火までは、正三日間。はやくも送り火の刻限になってしまった。作者は次女(真理)の魂を迎え、いま送りだそうとしている。もう少し、一緒にいたい。いてやりたい。「でも、もう『帰る刻』なのだから……」と、みずからにあきらめの気持ちを言い含める表現に、逆縁の辛さが滲み出た。逆縁ではなくても、同様の気持ちで今日の夕刻を迎える人たちはたくさんいる。毎年、そのことを思うと、夕刻の光が常日頃とは色合いのちがう感じに写る。桂信子には「温みある流燈水へつきはなす」の一句。別れがたい辛さを断ち切るために、「温み(ぬくみ)ある」燈籠を、万感の思いを込めて一気に「つきはなす」のだ。私の故郷では、今宵盆踊りがあり、終了すると近所の川で燈籠流しが行われる。農作業の合間に、何日もかけて作った立派な精霊舟も流される。せっかくの燈篭や舟がひっかかったり転覆しないようにと、数人の若い衆が竹竿を持って川に入り、一つ一つを注意深く見守る。燈篭の灯火に、腰まで水につかった彼らの姿が闇のなかで明滅する。過疎の村だから、岸辺にいる大人のなかには明日は村を離れて都会に帰る人も多い。夜が明ければ、もう一つの別れが待っているのだ。『西行の日』所収。(清水哲男)




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