August 0182001

 晝顔やとちらの露も間にあハす

                           横井也有

みは「ひるがおやどちらのつゆもまにあわず」。、一見、頓智問答かクイズみたいな句だ。「どちらの露」の「どちら」とは何と何を指しているのだろうか。作者の生きた江戸期の人なら、すぐにわかったのだろうか。答えは「朝顔」と「夕顔」である。この答えさえ思いつけば、後はすらりと解ける。朝顔と夕顔には、天の恵みともいうべき「露」が与えられるが、炎天下に咲く「昼顔」には与えられない。すなわち「間にあハす」である。同じ季節に同じような花を咲かせるというのに、なんと不憫な昼顔であることよと同情し、かつそのけなげさを讚えている。もう少し深読みをしておけば、句は人生を「朝顔」「昼顔」「夕顔」の三期に分け、いわば働き盛りを「昼顔」期にあてているのかもしれない。露置く朝や夕に比べて、露にうるおう余裕もなく、がむしゃらに働かざるを得ない朱夏の候を、けなげな「昼顔」に象徴させている気配が感じられなくもない。いずれにしても、この謎掛けのような句法は、江戸期に特有のものだろう。現に近代以降、この種の遊び心はほとんどすたれてしまっている。近代人の糞真面目が、俳諧のおおらかさや馬鹿ばかしさの「良い味」を無視しつづけた結果である。芭蕉記念館蔵本『俳諧百一集』所載。(清水哲男)




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