July 1672001

 さつきから夕立の端にゐるらしき

                           飯島晴子

なたにも、体験があるのではなかろうか。パラパラッと降ってきたかと思うと、サアッと日が射してくる。誰かの句に、銀座通りを夕立が駆け抜けていく様子を詠んだものがあったと思うが、雨の範囲が狭いのが夕立の特徴だ。なるほど「夕立の端」と、稚気を発揮して言うしかか言いようがない。この句には自註があって、気になることが書かれている。それまでの作者は、何か目に見えて強い手ごたえのある詩的時空を実現させたいと願ってきた。しかし「俳句の詩としての究極の手応えの強さ、確かさは、面の一見の強い弱いにはかかわらないということである。一見は何も無いようで、触ってみると固い空気のようなものが在るのも愉しいではないかということである。掲句でそういうことが出来ているかどうか。多分まだ抜き残した部分があるのだろうが……」(別冊俳句『現代秀句選集』1998)。俗に言う「肩の力を抜く」に通じる心境だろうが、一読者としての私も、だんだん同じような心境に近づきつつある。幾多の華麗な句や巧緻の句に感心しつつも、めぐりめぐってまた「一見は何も無い」子規句のような世界に戻っていきそうな自分を感じている。トシのせいだとは、思えない。単に、そのほうがよほど「愉しい」からだ。『儚々』(1996)所収。(清水哲男)




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