July 1072001

 籐椅子の家族のごとく古びけり

                           加藤三七子

具店に陳列してある「籐椅子(とういす)」は別にして、私などのこの椅子のイメージは、いつも「古び」ている。旅先での宿に置いてあったりするが、坐るとぐにゃりと曲がったり、よく見ると織り込んである籐の茎があちこち切れていたりする。一種のぜいたく品だから、そうそう買い替えるわけにもいかないのだろう。ましてや、普通の家庭では買うこともままならない。というよりも、買おうという発想すら浮かばない。したがって、私が掲句から得たいちばんのものは、句には書かれていないところである。すなわち「籐椅子」を日常の家具として使えるような、作者の家の暮しぶりへと自然に関心が行ってしまった。その上での「家族のごとく」なのだからして、私の知る数少ない良家の「家族」のありように思いをめぐらし、なんとなくでしかないが、この比喩に納得できたような気はする。静かに「古び」ていく家族の一人として、作者は「籐椅子」に腰かけながら、この椅子が新しかったころの家の活気を回想しているのだと想像した。もう、あの元気な「家族」との楽しかりし日々は戻ってこないのである。もっとも、これは私の思い過ごしで「籐椅子にさまで哀しきはなしにあらず」(高橋潤)なのかもしれないが……。『萬華鏡』(1975)所収。(清水哲男)




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