July 0472001

 端居してたゞ居る父の恐ろしき

                           高野素十

語は「端居(はしい)」で、夏。家の中の暑さを避け、縁先や窓辺で(つまり「家の端」で)涼気を求めくつろぐこと。夕方や夜のことが多い。いまや冷房装置の普及でその必要もなくなったので、すっかり「端居」という言葉も聞かなくなった。掲句は、作者が血清学研究のためのドイツ留学より戻ってからの作品なので、二十代も後半の一句だろう。子供時代の回想ととれなくもないけれど、なにせ作者は「写生の鬼」だった。生涯を通じて、回想句はほとんどない。そんな年齢でもまだ父親が「恐ろしき」と感じる心は、しかし素十ひとりのそれではなく、当時の人の大半が共有していたものだと思う。というよりも、昔から私くらいの年代にいたるまで、大人になってもなお父親の気配をうかがう性(さが)が身についてしまっているのだ。「ただ居る」という措辞が、子供のおびえの深度をよく言い当てており、ぎくりとさせられた。くつろいでいようが、父親が「ただ居る」だけで、家中がピリピリしていたことを思い出した。ちなみに、素十にあっては珍しい回想句に「麦を打つ頃あり母はなつかしき」がある。掲句を知った後では、「母は」の「は」に注目せざるを得ない。『初鴉』(1947)所収。(清水哲男)




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