June 2562001

 月下美人あしたに伏して命あり

                           阿部みどり女

に咲く花。いまのマンションに引っ越してきたころ、管理人が育てていた「月下美人」が咲きそうだというので、深夜に子供たちを含めて、大勢で開花を待ったことがある。二十年ほど前のことだが、当時は非常に珍しく、見事に咲くと新聞の地方版に写真が載るほどだった。純白の大花。サボテン科というけれど、トゲもないし、一般的なサボテンのイメージには結びつけにくい。同じ作者に「月下美人一分の隙もなきしじま」とあるように、開花した姿は息をのむような美しさだ。その絢爛にして「一分の隙もなき」花が、しかし「あした(朝)」の訪れとともに、がっくりと首を折るようにしてうなだれてしまう。このときに作者が若年であれば、そんな花の様子に「哀れ」を覚えるだけかもしれない。が、作者の高齢(九十歳前後)は「伏して」もなお「命あり」と、外見の衰えよりも、その底で脈打つ「命」の鼓動に和している。「立てば芍薬」など、女性を花に例えるのは男の仕業であり、それも多くは外見的な範疇でのことにとどまる。しからば、逆に女性の場合はどうなのだろうか。おのれを花に擬する気持ちがあるとすれば、どのようにだろうか。回答のひとつが、この句であってもよいような気がする。『月下美人』(1977)所収。(清水哲男)




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