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June 0962001

 薫風に膝たゞすさへ夢なれや

                           石橋秀野

書に「山本元帥戦死の報に」とある。大戦中の連合艦隊司令長官であり、国民的に人気のあった山本五十六がソロモン諸島上空で戦死したのは、1943年(昭和十八年)四月十八日のことだった。八十八夜のずっと前だから、いまだ「薫風」の季節ではありえない。では何故、句では「薫風」なのか。時の政府が山本の戦死を、一ヶ月ほど隠していたからである。すぐに発表すれば、あまりにも国民の動揺が大きすぎるとの判断から、事実が自然に漏れ出るぎりぎりまで延ばしたのだった。発表されたのは五月も下旬、国葬は六月に行われている。しかし、これで多くの人たちが否応なく戦局不利を実感してしまう。戦死の報に触れたときに、作者は思わずも「膝をたゞ」した。「こんなことがあって、よいものか」。いまこうして自分が居住まいを正していることさえ「夢なれや」、信じられない。すがすがしい「薫風」との取り合わせで、鮮やかに悲嘆落胆の度合いが強まった。時局におもねっているのではなく、作者は本心で五十六の死に呆然としている。当時世論調査が行われていれば、山本元帥の支持率は限りなく100パーセントに近かったろう。最近の小泉首相高支持率の中身が気にかかるので、いささか季節外れ(時節外れ)の掲句を扱ってみたくなった。『定本 石橋秀野句文集』(2000)所収。(清水哲男)


May 0852004

 長身めく一薫風の鳴り添ひて

                           香西照雄

語は「薫風(くんぷう)」で夏。「鳴り添ひて」というのだから、そよ風ではない。青葉若葉をそよがせて、さあっと吹いてきた強めの風だろう。その風を全身に受けて、作者は瞬間「長身めく」思いがしたというのである。すっと身長が伸びたような感覚。薫風のすがすがしさを詠んだ句は多いが、「長身めく」とはユニークな捉え方だ。しかし、言われてみればなるほどと合点がいく。すがすがしい気持ちは、辺りをちょっと睥睨(へいげい)したくなるような思いにつながるからだ。でも、これはおそらく男だけに備わった感受性でしょうね。女性には睥睨したいというような欲求は、ほとんどないような気がします。身長といえば、私は小学生のころまでは、クラスでも低いほうだった。中学に入って少し伸び、やっと真ん中へんだったか。それが高校生になるころから急に伸びはじめて、あれよという間に170センチを越えてしまい、クラスでも高いほうになってしまった。だが、学校ではともかく、街中でも電車の中でもちっとも「長身めく」といった感じはなかった。通っていた高校が基地の街・立川にあり、家の最寄り駅がこれまた基地の街・福生だったから、周囲にはいつも背の高いアメリカ兵がうようよしていたからである。電車の中で、どうかすると彼らの集団に巻き込まれてしまうことがあり、そうなると見えるのはもうゴツい背中や胸板だけになってしまう。通い慣れた車内とはいえ、とても心細いような気になったことを思い出す。「背の高い奴は気の毒だ。雨になれば先に濡れるからさ」「でも、先に乾くじゃないか」。そんな漫才もあったっけ。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


May 0852006

 薫風に民謡乗せて集塵車

                           梅崎相武

語は「薫風(くんぷう)」で夏、「風薫る」に分類。青葉のなかを吹き抜けるすがすがしい風だ。さて、ゴールデンウイークが終わった。今日から、日常の生活リズムが戻ってくる。連休中は不規則だったり休みだったりしたゴミの収集も、平常通りとなる。お馴染みのメロディとともに回ってくる「集塵車」に、日常を感じる人は多いだろう。作者の暮らす地域(兵庫県尼崎市)の集塵車は「民謡」を流しながら回ってくるようだが、これは全国的にも珍しいのではなかろうか。詳しく調べたわけではないけれど、たいていの自治体では子どもなどにも親しめる童謡系のメロディを採用しているという印象が強い。民謡のタイトルはわからないが、薫風に乗って民謡の節が聞こえてくるのは素敵だ。粋でもある。とはいえ、まさかお座敷歌なんてことはないだろうから、もともとが戸外の歌であった労働の歌が心地良い風に乗って流れてくる情景を、読者はそれこそすがすがしい気持ちで想像することができる。ところで、我が自治体の三鷹市の集塵車は無音だ。無音のままにやってきて、無音のままに去ってゆく。むろん騒音公害を避けるための処置とはわかるのだが、うっかり集積所に出すのを忘れたりしたときなどには不便である。気がついてあわてて出しに行くと、もう去ったあとだったりして、がっかりだ。ただ三鷹市の場合は、連休中も、ゴミの収集は平常通りに行われた。不規則収拾になるのは年末年始だけなので、その意味から考えると,集塵車の無音にも騒音防止以上の理由があるとは言えるのだが……。『南雨』(2006)所収。(清水哲男)


May 1452008

 城址になんにもなくて風薫る

                           江國 滋

事。数年前、所用で大阪へ行った際、時間が妙な具合にあいてしまった。どうしようかとしばし思案。「そうだ」と思いついて出かけたのが大阪城だった。その思い付きが恥ずかしいような嬉しいような・・・。何十年ぶりだった。どこの城も、遠くから眺めているぶんには晴れやかだが、いざやってきてみると観光化してしまい、何かあるようで何もないのが一般的。城主に関する功績なぞも、だいたいが底上げして退屈極まりない。かつての権力の象徴の残骸など好もしいはずがない。民の苦渋と悲鳴が、石垣の一つ一つに滲みついている。城址となれば一層のこと、石垣や草木が哀れをさらしているばかり。歴史の時間などとっくにシラケきっている。観光客がもっともらしく群がっているだけである。辛うじて今時のさわやかに薫る風にホッとしている。あとはなんにもない。なんにもいらない。さて、滋(俳号:滋酔郎)がやってきたのは、「荒城の月」ゆかりの岡城址(大分県)。「東京やなぎ句会」の面々で吟行に訪れた際の収穫。その時、滋は「目によいといわれ万緑みつめおり」という句も投句して、結果二句で優勝したという。小沢昭一著『句あれば楽あり』の吟行報告によれば、城址では、ここは籾倉があった、ここは馬小屋の跡、ここが本丸でした――と「何もない所ばかりのご説明」を受けたという。いずこも似たようなものですね。しかし、眼下にはまぎれもない新緑の田園風景がひろがっていた。ご一行が「なんにもなくて」に共鳴した結果が、最高点ということだったのかもしれない。『句あれば楽あり』(1997)所載。(八木忠栄)


May 1252009

 裁ち台のウエディングドレス風薫る

                           長谷川祥子

夏を過ぎ、梅雨に入るまでの東京の気温と湿度は、わずかに高原の夏にも似た快適さを感じることができる貴重な一ヵ月である。一年のなかでもっとも清潔感あふれる陽気ではないかと思う。明るい日差しに、緑の香を濃く溶いた風を、半袖になったばかりの腕に受けるのは、まるでミントの葉が添えられたアイスクリームのように心地よい。そしてその明るさは、木陰の闇を一層意識させるまぶしさでもある。掲句の裁ち台に置かれているのが、未完成のウエディングドレスであることに大きく胸が波立った。初夏の風は窓辺のカーテンを船の帆のようにふくらませたあと、純白のサテンやシフォンが渦巻くなかに、紛れ込んだのだ。何の樹、何の花とも判然としないが、しかしはっきりと含まれる芳香が、結婚という儀式のおごそかな美しさと、ほのかな秘密の気配を引き寄せる。まだ形をなしていないなめらかな生地が丁寧に裁断され、縫い合わされ、ゆっくりと六月の花嫁を包むウエディングドレスになっていく。『野外奏』(2008)所収。(土肥あき子)


May 1252012

 包丁はキッチンの騎士風薫る

                           中村堯子

句を始めたばかりの頃、風薫る、が春で、風光る、が夏のように感じられなんとなく違和感を持った記憶がある。そのうち、まず日差しから春になってくるとか、緑を渡る風が夏を連れてくるとか、気がついたのか思いこんだのか、その違和感はなくなってしまった。さらに薫風は、青葉が茂った木々を渡る南風を「薫ると観じた」(虚子編歳時記)とあり、香りだけでなく五感でとらえるということなのだろう。掲出句、包丁で一瞬どきりとさせられるが、薫風が吹き渡ってくることで、銀の刃と若葉の緑が輝き合い、キッチンの騎士、という歯切れのよい音と共に清々しさが広がる。『ショートノウズ・ガー』(2011)所収。(今井肖子)


May 1452013

 薫風一枚ペーパーナイフに切られけり

                           中尾公彦

路樹の緑が日に日に濃くなり、木もれ日がきらきらと跳ね回る季節となった。梅雨の前のひとときは花の香りを含んだ風のなかで、清潔な明るさに包まれる。薫風とは、山本健吉によると「水の上、緑の上を渡って匂うような爽やかさ感ずる夏の南風」とある。生気溌剌たる風の触手が、触れたものの香りを掬いとって大気へと放つというわけだ。掲句では、ペーパーナイフを使う所作に、薫風も切り分けているのだとふと自覚する。愛用者は「切り屑が出ない」「書類まで切ってしまう失敗がない」などの長所を挙げるが、机上に常備しているのは少数派だと思われる。とはいえ、ペーパーナイフには特化を極めたものの美しさがある。ステンレス製、木製、象牙や水牛の角などさまざまな素材からなり、持ち手のカーブや装飾など、手になじむ心地よさを追求した結果の、もののかたちである。開封するという目的だけに作られたシルエットの美が、麗しい季節を最大限に引き立る。『永遠の駅』(2013)所収。(土肥あき子)


June 0362014

 風薫るこれからといふ人生に

                           今橋眞理子

薫るとは、青葉若葉を吹き抜けるすがすがしい季語である。初夏の茶席によく掛けられる軸「薫風自南来」の出典は皇帝と詩人のやりとりのなかで生まれた漢詩だが、のちに禅語として取り上げられたことで、一層の涼味が加わった。黒々とした字配りと禅語風の「くんぷーじなんらい」という調子は、目にし、口にするだけで執着やわだかまりから解放されるような心地になる。掲句はこれから新しい一歩を踏み出す背中へ向けたエールである。この世の美しいものだけに触れながら通う風は、光りに満ち、未来に向かって吹き渡るのにもっともふさわしいものだろう。日々のなかで悩んだり、迷ったりしても、風薫る季節がいつでも初心を思い出させてくれる。本書のあとがきに「偶然が意味を持つ時、それは運命となる」とある。運命の扉はいつでも開かれるのを待っている。『風薫る』(2014)所収。(土肥あき子)


July 2172015

 空中で漕ぎし自転車雲の峰

                           中嶋陽子

ダルを漕ぐ姿勢は常に地から足が離れているという事実。普段気にとめない日常の動作が、実は空中で行っているものだと気づいたとき、ものすごい芸当であるような感覚が生まれる。そういえば、かつて自転車から補助輪を外したときの喜びは途方もないものだった。大人と同じであることが大きな自信につながっていた。実際、徒歩しかなかった行動範囲がずっと自由に大きく広がった瞬間だった。むくむくと盛り上がる入道雲に「こっちへおいで」と手招きされ、どこまでも行けるような晴れ晴れした心地をあらためて思い出す。〈山の神海の神ゐて風薫る〉〈短夜の声変へて子に読み聞かす〉『一本道』(2015)所収。(土肥あき子)


July 0672016

 薫風や本を売りたる銭(ぜに)のかさ

                           内田百閒

かさ」は「嵩」で分量という意味である。前書に「辞職先生ニ与フ」とある。誰か知り合いの先生が教職を辞職した。いつの間にか溜まり、今や用済みになった蔵書を古本屋にまとめて売ったということか。いや、その「辞職先生」とは百閒先生ご自身のことであろう。私はそう解釈したい。そのほうが百閒先生の句としての味わいが深まり、ユーモラスでさえある。これだけ売ったのだから、何がしかまとまったカネになると皮算用していたにもかかわらず、「これっぽっちか」とがっかりしている様子もうかがわれる。「銭のかさ」とはアテがはずれてしまった「かさ」であろう。だいいち「カネ」ではなく「銭」だから、たかが知れている。先生もそれほど大きな期待は、初めからしていなかったのであろう。そこまで読ませてくれる句である。それにしても、どこか皮肉っぽく恨めしい薫風ではある。本の重さよりも薫風のほうが、ずっと今はありがたく感じられるのである。私も手狭になると、たまった本を処分することがあるが、その「銭のかさ」は知れたものである。近頃は古書を買うにしても、概して値段は安くなった。百閒には傑作句が多いけれど、「物干しの猿股遠し雲の峰」という夏の句を、ここでは引いておこう。『百鬼園俳句帖』(2004)所収。(八木忠栄)




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