May 3152001

 幻が傘の雫を切つてをり

                           真鍋呉夫

れた傘を畳むときに、パッパッと「雫(しずく)」を切る。この動作について考えたこともないが、できるだけ家の中に湿気を持ち込まないようにする知恵だ。知恵とも言えない知恵のようだけれど、見ていると幼児などは切らないから、やはり暮らしのなかで覚えていく実利的知恵の一つではある。ところが、掲句で雫を切っているのは実利とは無関係の「幻」だ。そんなことをしても、何にもならない。その前に、幻に傘の必要はない。が、句の湛えている暗い存在感は気になる。こいつはどこから滲み出てくるのかと、考えた。たとえば幻を故人の姿に見立てれば、一応の筋は通る。しかし、淡泊に過ぎる。もっと、この句は孤独な感じがする。この孤独感は、おそらく「切つてをり」の「をり」に由来するのだろう。「いる」ではなくて「をり」。「いる」だと対象を時空的に客観視することになるが、「をり」の場合は「いま、ここでの行為」と、時空を一挙に作者に引き寄せるからだ。すなわち「幻」とは作者自身のことだと読める。自分のありようを自嘲して「幻」と比喩したとき、無意識に雫を実利的に「切つてを」る自分があさましくも思え、いまここで「切つてを」るうちに自嘲がいや増した瞬間を詠んだ句と取っておきたい。平たく言えば、しょせん「幻」みたいな存在の俺が、何で馬鹿丁寧にこんなことやってんだろう、というところ。そんな当人の滑稽感もあるので、ますます句が暗く孤独に感じられるのではなかろうか。五月尽。間もなく雨の季節がやってくる。『定本雪女』(1998)所収。(清水哲男)




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