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May 0152001

 故旧忘れ得べきやメーデーあとの薄日焼

                           古沢太穂

穂、七十歳の句。「故旧忘れ得べき」は、高見順の小説のタイトルにもある。人生の途次で親しく知りあった人々のことを、どうして忘れられようかという感慨を述べた言葉だ。誰にも、どんな人生にも、この感慨はあるだろう。太穂の属した政党と私は意見を異にするが、そのこととは別に、老闘士のメーデーに寄せた思いは胸に染み入る。メーデーもすっかり様変わりしたことだし、いまとなっては古くさい感傷と受け取られるかもしれぬ。とくに若い読者ほど、そう感じるだろう。無理もない。時代の流れだ。だから私も、ここで句の本意を力んで説明したいとは思わない。わかる人にはわかるのだから、それでいい。代わりに、作者十二歳(1924年・大正十三年)より十年ほどの自筆の履歴を紹介しておきたい。「九月一日。父長患の後四十九歳にて死去。翌年一家離郷(富山)。その後、母を中心にきょうだい六人、東京横浜を転々。新聞配達、住込み店員、給仕、土工、職工、業界新聞記者、喫茶店経営など仕事と住居を変えること枚挙にいとまがない。その間、働きながら昼間夜間いくつかの学校に籍を置いたが、法政大学商業学校、東京外国語学校専修科ロシヤ語科を卒業。昭和九年十月十四日妹久子死す」。作者自身は、昨年亡くなられた。「妻の掌のわれより熱し初蛍」。第一句集『三十代』(1950・神奈川県職場俳句協議会)巻頭に「寿枝子病臥」として置かれた一句である。『古沢太穂』(1997・花神社)所載。(清水哲男)


May 0152002

 磯に遊べリメーデーくずれの若者たち

                           草間時彦

語は「メーデー」で春。労働者の祭典だ。1958年(昭和三十三年)の句。私はこの年に大学に入り、多くの同級生がデモ行進に参加したが、私は行かなかった。いまと違って当時の行進は、あちこちで警官隊と小競り合いを起こす戦闘的なデモだったので、二の足を踏んでしまったわけだ。皇居前広場の「血のメーデー」事件から、六年しか経っていない。句に登場する若者たちは、デモに参加した後で、屈託なくも「磯遊び」に興じている。近所の工場労働者だろう。メーデーに参加すれば出勤扱いとなるので、午前中の行進が終われば後の時間はヒマになる。おそらく、ビアホールなどに繰り出す金もないのだろう。赤い鉢巻姿のままで磯に来て、無邪気にふざけあっている。ほえましいような哀しいような情景だ。この年は、年明けから教師の勤務評定反対闘争が全国的に吹き荒れ、岸信介内閣のきな臭い政策が用心深く布石され、しかも日本全体がまだ貧乏だったから、人々の気持ちはどこか荒れていた。鬱屈していた。「メーデーくずれ」の「くずれ」には、メーデーの隊列から抜け出てきたという物理的な意味もあるが、「若者よ、もっと真面目に今日という日を考えろ。未来を担う君らが、こんなところで何をやっているのか」という作者の内心の苛立ちも含められている。苛立っても、しかし、どうにもらぬ。「そう言うお前こそ、何をやってるんだ」。そんな作者の自嘲的な自問自答が聞こえてきそうな、苦い味のする句だ。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


May 0152004

 廚窓開けて一人のメーデー歌

                           一ノ木文子

日はメーデー。主婦である作者は台所の窓を開けて、ひとり小声で「メーデー歌」をうたっている。♪起て万国の労働者、轟きわたるメーデーの……。行進に参加しなくなってから、もう何年になるのだろう。職場にいたころは、毎年参加していた。こうしてうたっていると、あの頃いっしょに歩いた仕事仲間のことが、あれこれと思い出される。みんな、どうしているだろうか。若くて元気だったあの頃が懐かしい。「汝の部署を放棄せよ、汝の価値に目覚むべし、全一日の休業は、社会の虚偽をうつものぞ」。純粋だった。怖いもの知らずだった。と、作者は青春を懐旧している。歌は思い出の索引だ。盛んにうたった時代に、人の心を連れて行ってくれる。メーデー歌を媒介にして、そのことを告げている作者のセンスが素晴らしい。今年の「みどりの日」に開かれた連合系の中央メーデーへの参加者は、激減したという。そりゃそうさ。世界中の労働者諸先輩たちがいわば血で獲得した五月一日という日にちをずらし、あまつさえチア・ガールを繰り出し屋台を作って人数をかきあつめるなどは、このメーデー歌に照らしてみるだけでも、その精神に反している。表面的にはともかく、従来からの資本と労働の本質的な関係は何ひとつ変わってはいないのだ。にもかかわらず、主催者がこうした愚行を犯すとは。情けなくて、涙も出やしない。恥ずかしい。今日は、どんなメーデーになるのだろうか。私も、小声でうたうだろう。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


May 0152006

 制帽を正すメーデーの敵視あつめ

                           榎本冬一郎

語は「メーデー」で春。言わずとしれた労働者の祭典だ。日本では、1920年(大正九年)に上野公園で行われたのが最初である。掲句は警官の立場から詠んだ句で、まだ「闘うメーデー」の色彩の濃かったころの作句だ。現在のメーデーはすっかり様変わりしてしまい、警官の側にもこうした緊張感は薄れているのではあるまいか。変わったといえば、連合系のようにウイークデーの五月一日を避ける主催団体も出てきた。メーデー歌にある「全一日の休業は、社会の虚偽を打つものぞ」の精神を完全に見失ったという他はない。リストラに継ぐリストラを無策のままにゆるし、先輩たちが獲得した五月一日の既得権までをも放棄した姿は、現今の労働者の実際にも全くそぐわないものだ。むろん警官も労働者だが、せめて警官が「制帽を正す」ほどの緊張感のあるメーデーにすべきであろう。戦後すぐのNHKラジオが、メーデー歌の指導までやったという時代が嘘のようだ。宮本百合子の当時の文章に、こうある。「メーデーの行進が遮るものもなく日本の街々に溢れ、働くものの歌の声と跫足とが街々にとどろくということは、とりも直さず、これら行進する幾十万の勤労男女がそれをしんから希望し、理解し実行するなら、保守の力はしりぞけられ、日本もやがては働く人民の幸福ある国となる、その端緒は開かれたということではないだろうか」。いまとなっては、このあまりに楽天的な未来への読みの浅さが恨めしくなってくる。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


May 0252006

 メーデーへ全開の天風おくる

                           辻田克巳

語は「メーデー」で春。二日つづきのメーデー句。「増俳」のこの十年間で、同じ季語の句を二日つづけたことはないはずだが、昨日、およそ四半世紀ぶりにメーデーに参加してきたので、まあ、その後遺症ということでして……(笑)。いや、「参加」ではなくて「見学」程度だったかな。掲句のように、まさに好天。ずいぶんと暑かったけれど、木陰に入ると優しく涼しい「風」が吹いていた。久しぶりにメイン会場に行ってみて印象深かったのは、昔に比べて極端に赤旗の数が減ったことだった。旗の数そのものは多いのだけれど、グリーンだとかブルーだとかと、マイルドな色彩の旗が八割くらいを占めていただろう。人民の血潮を象徴した赤い色は、もはや「平和」な時代にそぐわないということなのか。この現象は、現在の日本の労働組合のありようを、それこそそのまま象徴しているかに思えた。もう一つ、強く印象づけられたのは、私の若い頃とは違い、若者の参加者が極端に減っていることだった。男も女も、たいていが四十代後半以上と見える人たちばかりで、わずかに某医療施設から参加したという若い女性の看護士グループが目立っていた。ここにも、現今の労働組合活動の困難さがかいま見られて、寂しく思ったことである。会場で歌われた歌でも、私が知っていたのは「がんばろう」一曲のみ。かつての三池争議で盛んにうたわれた歌だ。どんなイベントであれ、様変わりしていくのは必然なのではあろうが、「全開の天」の下、しばし私は複雑な心境にとらわれたまま立っていたのであった。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


April 2842008

 メーデーの手錠やおのれにも冷たし

                           榎本冬一郎

ーデーが近づいてきた。と言っても、近年の連合系のそれは四月末に行われるので、拍子抜けしてしまう。メーデーはあくまでも五月一日に行われることに大きな歴史的な意義があるのだ。このたった一日の労働者の祭典日を獲得するまでに、世界中の先輩労働者たちがいわば血と汗で贖った五月一日という日付を、そう簡単に変えたりしてよいものだろうか。私は反対だ。句の作句年代は不明だが、まだメーデーに「闘うメーデー」の色彩が濃かった頃の句だと思われる。家族連れが風船片手に参加できるような暢気な状況ではなかった。作者は警察官の立場から詠んでいるわけだが、所持した手錠を何度も触って確認している図は、おのずからメーデー警備の緊張感を象徴している。触って冷たいのだから、まだ祭典が始まる前の朝早い時間かもしれない。手錠は心理的にも冷たく写るので、やがて遭遇することになるデモ隊からは、所持者たる警察官にもそれこそ冷たい視線が浴びせられることになるだろう。作者はそのことを十分承知しながらも、しかし「おのれにも」冷たいのだと言っている。触感だけではなく、心理的にもだ。作者は苦学して警察官になったと聞く。だから、民間労働者の苦しみもよくわかっている。立場の違いがあるからといって、そのような人々と争いたくはない。できれば手錠を使う機会がないことを願うばかりなのだ。そんな気持ちの葛藤が、作者をして心理的にも手錠を冷たく感じさせる所以だと読めてくる。『現代歳時記・春』(2004年・学習研究社)所載。(清水哲男)


May 0152012

 メーデー歌いつより指輪にときめかず

                           福田洽子

980年代半ばから十数年間をOLとして過ごしていたが、メーデーとは希薄な関係のままだった。「8時間は労働、8時間は休息、8時間は自由な時間のために」というメーデー誕生の主張を、新鮮な気持ちで眺めている。バブル期といわれる好景気にもまるきり実感はなかったが「24時間働けますか♪」というバカバカしいCMは今も耳底に残っている。あらためて「メーデー歌」を検索してみると「聞け万国の労働者」がヒットした。聞いたことはあるが、歌詞は最初のフレーズのみしか覚えはなく、以降が「汝の部署を放棄せよ」「永き搾取に悩みたる」などと続くとは思いもよらなかった。この時代の先輩たちの熱き攻防が、後に続く労働者のさまざまな権利を成果として実らせてきたのだろう。掲句の「いつより指輪にときめかず」には、若い日々へのほろ苦い回顧がある。指輪にときめいていた頃の指は、未来を掴もうと戦っていた。野望に満ちた手は装飾品を欲し、また希望に満ちたしなやかな指にはきらめきや彩りがよく似合う。今あらためて、装飾品から解放され、じゅうぶんに時を経た無垢の指を見つめている作者がいる。次の世代へとバトンを渡したあとの手はおだやかに皺を刻み、戦い掴み取る手から、差し出す掌へと変貌している。『星の指輪』(2012)所収。(土肥あき子)




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