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April 0842001

 虚子の忌の写真の虚子の薄笑ひ

                           大野朱香

日、四月八日は高浜虚子の命日。1959年(昭和三十四年)没。「椿壽忌」とも称される。このときに私は大学生だったが、何も覚えていない。新聞は、一面でも大きく扱ったはずだけれど……。掲句は、なんといっても「薄笑ひ」が効いている。作者がどんな写真を見ているのかはわからないが、おそらくは微笑を湛えているであろう一見柔和な表情に、そうではないものを嗅ぎ取っている。小人(しょうじん)どもには、しょせん俺のことなどわかるまい。皮肉と侮蔑が入り交じったような、向き合う者をじわりと威圧するような、そんな表情に見えているのだ。虚子忌の句は掃いて捨てるほどあり、今日もたくさん作られるだろうが、微笑の奥に「薄笑ひ」を読んだ掲句の鮮烈さにかなう句を、他に知らない。しかも作者が、意地悪で作句しているのではないところに注目。虚子を巨人と思うからこその発想で、いささか敬遠気味ではあるとしても、虚子の大きさを的確に言い当てている。俳句的な腰は、ちゃんと入っている。ところで、これはいつかも書いたことだが、俳句では命日をやたらと季語にする風潮がある。人はどんどん死んでゆくから、忌日の季語もどんどん増えていく。反対だ。理由は単純。「○○忌」と作句されても、そんなのいちいち覚えちゃいられないからだ。命日と季節は、第三者には関係がつけられない。したがって、季語とは言えない。頼むから、仲間内だけでやってくれ。『今はじめる人のための俳句歳時記・春』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


April 0842006

 若き頃嫌ひし虚子の忌なりけり

                           猪狩哲郎

語は「虚子忌」で春。高浜虚子の命日。虚子が鎌倉で没したのは,1959年(昭和三十四年)四月八日であった。八十四歳。そのころの私は大学生で俳句に熱中してはいたが、作者と同じように虚子は「嫌ひ」だった。彼の詠むような古くさい俳句は、断固撲滅しなければならないと真剣に考えていた。「俳句に若さを」が、当時の私のスローガンだった。虚子が亡くなったときに、新聞各紙は大きく報道し、手厚い追悼記事を載せたのだけれど、だから私はそうした記事をろくに読まなかった覚えがある。こういう言い方は故人に対してまことに失礼であり不遜なのであるが、彼の訃報になんとなくさっぱりしたというのが、正直なところであった。付け加えておくならば、当時の俳句総合誌などでも、いわゆる社会性俳句や前衛俳句が花盛りで、現在ほどに虚子の扱いは大きくはなかったと思う。意識的に敬遠していた雰囲気があった。メディアのことはともかく、そんな「虚子嫌ひ」だった私が、いつしか熱心に虚子句を読みはじめたのは、五十代にさしかかった頃からだったような気がする。そんなに昔のことではないのだ。一言で言えば、虚子は終生新奇を好まず、日常的な凡なるものを悠々と愛しつづけた俳人だ。すなわち、そのような詩興を理解するためには、私にはある程度の年齢が必要であったということになる。虚子逝って、そろそろ半世紀が経つ。時代の変遷や要請ということもあるが、もう二度と虚子のような大型の俳人が出現することはあるまい。「虚子嫌ひあるもまたよし虚子祀る」(上村占魚)。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 1692014

 嘘も厭さよならも厭ひぐらしも

                           坊城俊樹

いぶん長く居座った夏の景色もどんどん終わっていく。盛んなものが衰えに向かう時間は、いつでも切ない思いにとらわれる。他愛ない嘘も、小さなさよならも、人生には幾度となく繰り返されるものだ。ひぐらしのかぼそい鳴き声が耳に残る頃になると、どこか遠くに追いやっていたはずのなにかが心をノックする。厭の文字には、嫌と同意の他に「かばう、大事にする、いたわる」などの意味も併せ持つ。嘘が、さよならが、ひぐらしが、小さなノックは徐々に大きな音となって作者の心を占めていく。〈みみず鳴く夜は曉へすこしづつ〉〈空ばかり見てゐる虚子の忌なりけり〉『坊城俊樹句集』(2014)所収。(土肥あき子)




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