March 2532001

 浮き世とや逃げ水に乗る霊柩車

                           原子公平

語は「逃げ水」で、春。路上などで、遠くにあるように見える水に近づくと、また遠ざかって見える現象。一説に、武蔵野名物という。友人知己の葬儀での場面か、偶然に道で出会った霊柩車か、それは問わない。「逃げ水」の上に、ぼおっと浮いたように霊柩車が揺れて去っていく。そこをつかまえて「浮き世とや」と仕留めたところには諧謔味もあるが、人間のはかなさをも照らし出していて、淋しくもある。霊柩車はむろん現世のものだが、こうして見ると彼岸のもののようにも見える。まさにいま、この世が浮いているように。死んでもなお、しばらくは「浮き世」離れできないのが人間というものか。句集の後書きを読んだら、きっぱりと「最後の句集」だと書いてあった。また「『美しく、正しく、面白く』が私の作句のモットーなのである」とも……。宝塚歌劇のモットーである「清く、正しく、美しく」(天津乙女に同名の著書がある)みたいだが、揚句はモットーどおりに、見事に成立している。この句自体の姿が、実に「美しく、正しく、面白」い。いちばん美しく面白いのは、句の中身が「正しい」ところにある。「正しさ」をもってまわったり、ひねくりまわしたりせずに、「正しく」一撃のもとにすぱりと言い止めるのが、俳句作法の要諦だろう。言うは易しだが、これがなかなかできない。ついうかうかと「浮き世」の水に流されてしまう。「正しさ」を逃がしてしまう。話は変わるが、句の「逃げ水」で思い出した。「忘れ水」という言葉がある。たとえば池西言水に「菜の花や淀も桂も忘れ水」とあるように、川辺の草などが生い茂って下を流れる川の水が見えなくなることを指す。日本語の「美しく、正しく、面白く」の一端を示す言葉だ。『夢明り』(2001)所収。(清水哲男)




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