March 2132001

 豆の花どこへもゆかぬ母に咲く

                           加畑吉男

ろりと、させられる。俳句で「豆の花」といえば、春に咲く豌豆(えんどう)や蚕豆(そらまめ)の花をさす。最近はなかなか見るチャンスもないが、子供の頃には日常的な花だった。小さくて、蝶に似た形をした可憐な花だ。たとえれば、思春期の少女のようにどこか幼いのだが、華やかさも秘めている。清らかさのなかに、あるかなきかのほどにうっすらと兆している豊熟への気配……。その花が、「どこへもゆかぬ母」のために咲いているようだと詠んだ作者は、心優しい「男の子」だ。母はむろん少女ではありえないけれど、しかし、作者は「どこへもゆかぬ」ことにおいて、母に少女に通じる何かを感じているのだと思う。彼女が「どこへもゆかぬ」のは、現実的には周囲への遠慮や気遣いや、あるいは経済的な理由からだろう。そんな母親を日頃見やりながら、たまには羽を伸ばせばよいのにと願っている作者は、この季節になると咲く「豆の花」を、母のために咲いていると感じるようになってきた。このとき、母と花は同じ年齢の少女の友だち同士みたいに写っているのだ。畑の世話をする母親が、花によって慰められてほしいと、揚句での作者の願望もまた、少年のように初々しいではないか。昔の母親たちは、本当に「どこへもゆか」なかった。いつも誰よりも早く起き、風呂も最後に入って、いちばん遅くに床に就いた。大家族の農家の母親ともなれば、睡眠三時間、四時間程度の人も多かったと聞く。いまどきの感覚からすれば、ただ苦労をしに生まれてきたようなものである。そんなお母さんの「ため」に、今年も静かに「豆の花」が咲いたのだ。これが美しくなくて、他のどんな花を美しいと言えるだろう。『合本俳句歳時記・第三版』(1997)所載。(清水哲男)




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