March 1432001

 桃咲くやゴトンガタンと納屋に人

                           矢島渚男

や春。農家の庭先だろう。陽光のなか、見事な桃の花が咲いている。思わず立ち止まって見惚れていると、納屋の中から「ゴトンガタン」と音が聞こえてきた。なかに、誰かがいる様子だ。桃の花には、どこかぼおっと浮き世を忘れさせるような趣がある。万葉の昔から、そのあたりの感覚はよく歌われてきた。「春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つをとめ」など。けれど、揚句はそこに生活の音を配したところがミソである。「ゴトンガタン」は、何か大きな物を動かしている物音だ。小さな物ならば、音も「ゴトガタ」とせわしないはずだ。おそらくは農作業に使う道具だろうが、もちろん作者には見えない。見えないが、植物だけではなく、人間世界でもいよいよ本格的な春の営みのはじまる気配が感じられ、心豊かな気持ちになっている。「ゴトンガタン」のおおらかな物音は桃の花のぼおっとした雰囲気によく溶け込んでおり、人が季節とともに生きていることの素晴らしさを伝えて秀逸だ。余談めくが、この句で作者がいちばん苦労したのは「ゴトンガタン」の表現だろう。「ガタンゴトン」では昔の汽車の走る音になってしまうし、かといって、なかなか他に適切な擬音語も思いつかず……。いろいろと試みてみて、結局「ゴトンガタン」に落ち着いた(落ち着かせた)ときの作者の気持ちがわかるような気がする。さらっとできたような顔つきの句に見えるが、私には苦吟の果ての「さらっ」に思われた。『翼の上に』(1999)所収。(清水哲男)




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