March 1332001

 人生を空費して居る柳かな

                           永田耕衣

吹きが美しいので「柳」は春の季語。「♪柳青める日、ツバメが銀座に飛ぶよ、……」など、たくさんの春の流行歌にもなっている。さて、揚句。まさか柳に「人生」があろうはずもないから、すうっと読み下さないで、「空費して居る」で一度切る。すると、柳の姿に「人生を空費して居る」おのれの姿がダブル・イメージとなって映し出されてくる。しかし、そう簡単に句を割り切ってしまうのも面白くないよ。と、句それ自体が呼びかけているような気がする。では、次にすうっと読み下してみよう。すると今度は柳にも「人生」があることになる。どんな「人生」なのか。たとえば俗に「柳に風」と言ったりするが、これを皮肉に解釈すれば、平然と風を受け流せるのは、柳にはおのれを主張できるような確固とした主体的自立的「人生」がないからだと言える。何も主張しないのだから、どんな風当たりにも平気の平左でいられるのだ。こう読むと、「人生」の「空費」も捨てたものじゃない。むしろ最初から「空費」するしかない柳の「人生」のほうが、羨ましくさえ思えてくる。となって、結局は途中で切って読んでも読み下しても、テーマは同じところに収斂していく。「空費」全般の肯定だ。ここらへんが、俳句様式のマジックだろう。いわば曖昧さを「精密に表現してみせる」様式とでも言うべきか。簡単に言えば、作者が「そんな気がした」だけで、さしたる説得の努力もせずに、読者に有無を言わせないところが俳句にはある。「作るが勝ち」のところがある。こんな文芸は、他にはないだろう。『人生』所収。(清水哲男)




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