February 2722001

 灰となる椅子の残像異動期過ぐ

                           穴井 太

くの職場では、人事異動の季節。実際に動くのは四月だとしても、労働契約にしたがって、少なくとも一ヶ月前までには内示がある。いまの「椅子」から動きたい人、動きたくない人、さまざまだ。作者は中学教師だった。人事異動には昇進も含まれるが、この場合は転勤だろう。作者は動きたくなかった。だが、異動には頃合いというものがあり、そろそろ動かされても仕方がない立場ではあった。いつ内示があるかと、毎日びくびくしている。教師の世界は知らないが、異動を言い渡す役目は校長だろうか。だとすれば、校長の一挙手一投足までが気になる。うなされて、自分の「椅子」が灰になる夢を何度も見る。しかし結局は何ごともなく二月が過ぎていき、ようやく安堵の胸をなで下ろしたところだ。が、なで下ろしながらも、「灰となる椅子の残像」は見えている。よほど神経的にまいってしまっているのだ。この「残像」に思い当たるサラリーマンは多いだろう。穴井太には「風になった男」という小さな山頭火論があって、風まかせに歩いた自由律俳人の生き方に目を見張っている。見張ってはいるものの、とうてい山頭火のようには生きられぬのが自分の器量であり宿命でもある。このときに「春の雲おれの居場所は段畑」と詠んだ穴井太の心情は、切なくも読者の胸奥にしみ入ってくる。たしかに山の「段畑」は、ささくれた神経を解きほぐしてくれる最高の「居場所」にはちがいないが、作者がここから風となって遠くに吹いていくことは、ついにできないのだから。山を下りれば、そこには「椅子」があるのだから。『穴井太集』(1967)所収。(清水哲男)




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