February 1622001

 菜の花を挿すか茹でるか見捨てるか

                           櫂未知子

村暮鳥の「いちめんのなのはな」ではないが、古来「菜の花」は黄金世界のかたまりとして捉えられ好まれてきた。揚句では、なかの二三本をいわばズーム・アップしていて、そこにまず新しさがある。そして「見捨てる」という強い表現に、私は魅力を覚えた。「見捨てる」は「見て放っておく」ことではあるが、単に「見過ごす」のではない。相手の状態がどうであれ、たとえ人が眼前で溺れていようとも、我には関わりなきものと冷たく「見放す」のだ。ところがこの場合には、相手が「菜の花」だから、べつに助けを求めているわけでもないし、作者に何かを訴えているわけでもない。それを承知で、作者はあえて「見捨てるか」とつぶやいてみた。つまり、作者は相手に対して手前勝手なことを言っている。「見捨て」られた側は何も感じない理屈であり、そこに揚句の滑稽がにじみ出てくる。手前勝手に力み返っている面白さだ。もっと言えば、はじめからいちゃもんをつける気分で「菜の花」に対しているかのようでもある。でも不思議なのは、読後感にどこか作者の「颯爽(さっそう)」たる勢いが残るところだ。理屈では空回りしている句なのに、何故だろうか。この句は、岡田史乃の俳誌「篠(すず)」(第99号・2001)で知った。そこで史乃さんは「(従来の花を大切にというような)心をかなぐりすてて『菜の花』へ正面衝突している」と書いている。たしかに、そういうふうにも読める。尻馬に乗って付け加えれば、断定的な物言いの出来がたい現代にあって、空回りであれ何であれ(そんな思いはかなぐりすてて)、きっぱりと「見捨てるか」と言い放ったこと、それ自体に私は「颯爽」を感じているのかもしれない。そう考えると、なかなかに厄介な句だ。ところで「菜の花」には「菊の花」などと同じように、食用とそうでない品種とがある。見分けのつかない(だから、この句ができた)作者は、どうしたろうか。まさか「茹で」たりしなかったでしょうね。わからないときには、さっさと「見捨てる」がよろしい(笑)。『蒙古斑』(2000)所収。(清水哲男)




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