February 1122001

 地球儀のいささか自転春の地震

                           原子公平

語では、地震を「なゐ」と言った。作者も、そのように読んでくださいと「ない」と仮名を振っている。ぐらっと来た。少し離れたところの地球儀を見ると、「いささか」回るのが見えた。地震だから地が動いたわけで、そこから「地球儀」も自転したと捉えたのが揚句の芸である。「いささか」でも地球儀が回るほどの地震だから、そんなに小さな揺れではなかったろう。ちょっと緊張して、腰を浮かせたくなるほどだったろう。とっさに地球儀に目がいったのは、部屋の中でいちばん転落しやすい物という意識が、日ごろからあったからに違いない。たしかに地球儀は、少なくとも見た目には安定感に欠けている。でも、それっきりで揺れは収まった。ヤレヤレである。句意としては、こんなところでよい。ただうるさいことを言えば、何故「春の地震」なのかという疑問が残る。べつに「春」でなくたって、他の季節の「地震」でも、同じことではないか。実際に、たまたま「春の地震」に取材したのだとしても、それだけでは「春」と表現する根拠には乏しいのではないか。地震の揺れように、四季の区別はないからだ。はじめ私もそう思ったが、この句の主題は「地震」などにはなく、本格的な「春」の到来にあるのだとわかった。すなわち、他の「夏」でも「秋」でも「冬」でもなく、いきなり「地震」のように予知できない感じで訪れるのが「春」なのだと。四季のうちで最もおだやかな「春」が、もっとも不意にやってくるのだと……。「春めく」という言葉があるくらいで、兆しはあっても、待つ「春」は遅い。しかし、あっと「地球儀」の回転に気づいたときには、もう「春」は盛りなのである。わざわざ「地震」を「ない」と読ませているのは、字余りを嫌ったのではなくて、「古来」という感覚を生かしたかったのだ。すなわち、句全体が「春の訪れ」の喩になっている。『海は恋人』(1987)所収。(清水哲男)




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