February 0822001

 水槽に動く砂粒日脚伸ぶ

                           ふけとしこ

を飼っている。水槽が置いてあるのは窓際だろうか、玄関先あたりだろうか。ともかく、室内の採光に適した場所であるにはちがいない。真冬の間には見えなかった夕刻の時間にも、魚が動くたびに水槽の砂粒のわずかに動く様子が、はっきりと目撃できるようになった。まさに「日脚伸ぶ」の実感がこもっている。むろん魚の泳ぐ姿もよく見えているわけだが、魚を言わないで砂粒のかすかな動きを捉えたことで、より「日脚伸ぶ」の感覚が読者に伝わってくる。春近い光のありがたさを敏感に感じている作者の心の、微妙な瞬間を伝えていて巧みだ。もうすぐ、本格的な春がやってくる……。「日脚伸ぶ」という晩冬の季語は、人々の春待つ期待感を、具体的にすぱりと言いとめた季語である。私は長い間、面白い季語だなあと思ってきた。「日脚」とは、太陽の「光線」だ。光が伸びるというわけだが、単に届く距離が伸びるというだけではない。走るスピードを表現するときに「脚が伸びる」というように、距離感覚と時間感覚とを共有させた言葉だろう。実際には太陽光線の移動スピードが変わるはずもないのだが、春待つ心にしてみれば「早く」と「速く」とを重ね合わせて待望したいのだ。そんな待望の心が「日脚伸ぶ」には込められていると思う。ところでまたぞろ蛇足だが、なんと下品な言葉よと「待望」という表現を嫌ったのは、かの文豪・谷崎潤一郎であった。高校時代に『文章讀本』で読んだ。「ホタル通信」(第11号・2001年2月1日)所載。(清水哲男)




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