February 0622001

 佶倔な梅を画くや謝春星

                           夏目漱石

が意を得たり。その通りだ。と、私などは思うけれども、作者に反対する人も多いだろうなとは思う。「謝春星」は、俳人にして画家だった与謝蕪村の別号だ。あえて誰も知らない「謝春星」と漱石が書いたのは、「梅の春」にひっかけた洒落っ気からだろう。漱石は、蕪村の画く梅が佶倔(きつくつ)だと批評している。はっきり言えば、一見のびやかな感じの絵に窮屈を感じているのだ。「佶倔」は窮屈、ぎくしゃくしているという意味である。句の裏には、むろん商売で絵を画く蕪村への同情も含まれている。ひとたび蕪村の世界にとらわれた人は、生涯そこから抜け出せない。逆に、最初に入れなかった人は、ついに蕪村を評価できないで終わってしまう。これは、蕪村の俳句についてよく言われることだ。このページでも何度か書いたはずだが、蕪村は徹底的に自己の表現世界を演出した人だった。俳句でも絵画でも、常に油断のない設計が隅から隅まで仕組まれている。神経がピリピリと行き渡っている。だからこそ惚れる人もいるのだし、そこがイヤだなと感じる人も出てくる。漱石は、イヤだなと思った一人ということになる。実際、蕪村の絵を前にすると、あるいは俳句でも同じことだが、18世紀の日本人だとは思えない。つい最近まで、生きて活動していた人のような気がする。暢気(のんき)そうな俳画にしても、よく見ると、ちっとも暢気じゃない。暢気に見えるのは図柄の主題が暢気なせいなのであって、構図そのものは「佶倔」だ。演出が過剰だから、どうしてもそうなる。そのへんが下手な(失礼、漱石さん)水墨画を画いた作者には、たまらなかったのだろう。だから、あえて下手な句で皮肉った。この場合は上手な句だと、皮肉にも皮肉にならないからである。蕪村の辞世の句は「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」だ。百も承知で、漱石は揚句を書いたはずだ。『漱石俳句集』(1990)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます