February 0522001

 雪国の言葉の母に夫奪はる

                           中嶋秀子

い夫婦を訪ねてきたのは、作者自身の母親だろう。義母だとしたら、わざわざ俳句にするまでもない。夫と彼の母親が仲良く話していても当たり前で、「奪はる」とまでの感情はわいてこないはずだからだ。「奪はる」というのは大袈裟なようだが、作者が思いもしなかった展開になったことを示している。いまどきの軽い言葉を使うと、「ええっ、そんなのあり……」に近いだろうか。「夫」と「母」の間には、社交辞令的な会話しか成立しないと思っていたのが、意外や意外、よく通じ合う共通の話題があったのだ。つまり、母親の育った土地と夫のそれとが合致した。そこでたちまち二人は意気投合して、お国言葉(雪国の言葉)で盛んに何か話し合っている。別の土地で育った作者には、悲しいかな、入っていけない世界である。嬉々として話し合う二人を前にして、作者は母親に嫉妬し、憎らしいとさえ思っているのだ。第三者からすれば、なんとも可憐で可愛らしい悋気(りんき)である。ここで興味深いのは、作者の嫉妬が母親に向けられているところだ。話に夢中になっている夫だって同罪(!?)なのに、嫉妬の刃はなぜか彼には向いていない。私のか細い見聞による物言いでしかないが、男女の三角関係においては、どういうわけか女の刃は同性に向くことが一般的なようである。新聞の社会面に登場する事件などでも、女性が女性を恨むというケースが目立つ。たとえ男の側に非があっても、とりあえず男は脇にどけておいて、女性は女性に向かって真一文字に突進する。何故なのだろう。本能なのだろうか……。いけねえっ、またまた脱線してしまったようだ(反省)。『花響』(1974)所収。(清水哲男)




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